2006-08-20
Vol.0130
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━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━   ☆☆   ☆☆   ☆☆     ☆☆ 『アセンション館通信』vol.130 2006/08/20(第130号) ☆☆  ☆   ☆☆ ☆☆      ☆★ 購読者10,000人:に向けて驀進中、現在 736名 (^^)/ -☆☆---------☆☆----------------------------------------------------  ☆☆   ☆☆              https://www.ascensionkan.com/ ━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇ このメルマガは“アセンション情報の広告塔メルマガ”です。 つまり、“アセンション”という言葉の流通拡大を手段として、 地球住民の“集合意識”の基盤を“ゆるめ・ひろげ”ることによって、 地球が向かう新しい光り輝く世界への次元移動を、できるだけ自然で、 スムーズなものにすることを目的に週刊で発行されています。(^_-) ◇◇ このメルマガが想定する“アセンション”◇◇ “アセンション”という言葉を聞いたことがない方は、発信サイトで https://www.ascensionkan.com/demae/ascension.html このページ↑をご覧ください。 また、特にこのメルマガが想定している“アセンション”という言葉の意味合 いについては https://www.ascensionkan.com/demae/ascension_m.html このページ↑をご覧ください。 これまで地球の次元上昇サポートを背後支援に絞ってこられたETの方々が、 ファーストコンタクトに向けて国勢調査を開始されました。 https://www.ascensionkan.com/demae/ET_message.html ここ↑をご覧ください。 要するに、グレゴリオ歴2012年12月22日をひとつの仕切として、これからわず か7年ほどの間に、前後のつながりを辿れなくなるほどの大激変を通過して、 われわれは光り輝く圏域に移行するという、なんともはや嬉しいような、恐ろ しいようなお話に“悪乗り”して行こう、という楽しい話題を振りまいていま す。(^^)/ ---------------------------------------------------------------------- ◇◇ もくじ ◇◇ 1.“自分”が何が好きか 2.旧稿再掲:〔比較と競争〕の2――「動物学校」の比喩 3.写経ニサルガダッタ: 【79 個人、観照者、至高なるもの】より 4.編集後記: それ以上のことなど、あるはずもないのだから。 ---------------------------------------------------------------------- ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■ 1.“自分”が何が好きか ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 今日は暑かったですねぇ。^^;; といっても、今日が特別に暑い日だったのかどうかは、まったく保証のかぎり ではありませんよ。 そんなこと、知るもんか。(*^_^*) 宇宙内のあらゆるところで、すべて生き物たちは“自らフォーカスした状況” のなかでそれぞれ勝手な感想を抱いて生きているんですからねぇ。 わたしだって、勝手な感想を抱いてもいいわけです。(^_-) 「今日は暑いですねぇ」なんて、なかなか乙でステキじゃありませんか。 この頃の若い方たちは、“乙(おつ)”なのは“ステーキ”だろう、なんて思 うのかもしれませんけど、そんなもんじゃありませんぜ、旦那。 ……ったく、暑さのせいか、都会からやって来たバーベキュー遊びの方々のゴ ミ処理マナーの悪さのせいか、すっかり頭がいかれちまって。^^; しかし、考えてみれば、何ですなぁ、「今日は暑いですねぇ」なんて、何か不 思議な科白じゃありませんか。 “今日さん”が「おらー、暑いだ」と悲鳴をあげてるわけじゃなし。 かといって、ニュージーランドの方が、「今日は暑い」と言ってるわけでもな いでしょうし。 たとえ日本に住んでいる方に限ったって、台風の叩きつけるような暴風雨にさ らされている方がいたら、その方は「今日は暑いですねぇ」なんて言わないわ けでしょうし。 ふむ、「今日は暑いですねぇ」か……。(-_-;) それぞれ、自分がフォーカスした状況の中で、勝手な感想を漏らしているだけ なんだなぁ。 (@_@) あ……、また独り言に入っちゃって。(*^_^*) というわけで、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”にお付き 合いいただく時間がやってまいりました。(^^)/ 『アセンション館通信』配達人の pari です。 みなさま固有の「私は在る」の中で、いかがお過ごしでしょうか? ……しかし、たとえマインドの中だけのことにしろ、宇宙内のあらゆる生き物 たちの感想を、それぞれ“もっともで妥当な感想”なんだと思うと……。 今さらながらに、“自分”が支えるこの「世界」の調度の“姿形”が、ほの見 えてくるようでもあります。 (@_@) あ、今日はどうも、酔っぱらってるな。(>__ これはわたしの最大の贈り物だ。 なんて。 ニール・ドナルド・ウォルシュさんとそのハイアーセルフの、“目隠し”二人 三脚のお芝居なんでしょうか。 ま、それはともかく、そこで、さっき言った“好き勝手”という話になるんで すけど。 “自分”が何が好きか、ということが、ここでトコトン重要になってくるだろ うと思います。 「“自分”が何が好きか」は、“自分”以外の他の誰にも訊くわけにいかない んですよね。 そして、たぶん、このタイミングというのは、誰にとっても、その人が本当に 好きなことが、いやおうなく実現してしまう時期、ということなんじゃないだ ろうか。 たぶん、それを避けることはできないんだろうと思います。 まさに恐るべきは“後生”ではなく、自分の欲望なのでは。(-_-;) (*^_^*) だから、自分の好みにはこだわった方がいいのかも。 もっとも、和尚はこんなふうに保証していたけれど……。^^; ----------------------------------------------------------------------  仏陀の信頼とは、どんなものを要求しようと間違うことになるという事実の、  深い理解のことだ。  それを理解しようとしてごらん。  繰り返して言おう。  何を欲しようとも、それは必ず間違う。                           『信心銘』(p361) ---------------------------------------------------------------------- そんなこと言われたってねぇ。(^_-) なぜだか、こんなメッセージをふっと思い出した。 直居慧(なおい あきら)さんが降ろされた、このコンテッサのメッセージ、 よくはわからないけれど、とっても好きなんですよね。 ----------------------------------------------------------------------  みなさまの人格的な意識のなかで、ポッカリと穴をあけたブラックホールの  ような、寄る辺のないようなあの孤独の空間は、もし、そこに近づいたなら、  存在そのものが呑み込まれ、どこにも自分がいなくなってしまうのではない  かという、あの恐れの深淵は、実はとても貴重なエネルギーの“通気孔”だ  ったのです。  周りの環境がどうあれ、人格的な意味で友情や愛情に非常に恵まれた生活を  していようと、していまいと、太陽の黒点のように、あるいは、もはやあが  ない切れないと感じられるほどに内面にしっかりと座を占めてしまった、あ  の“通気孔”が、その恐れが、燦然たる光となり、クリスタルとなり、まさ  に新しいこの地球の創造をうながすためのアルケミーの、エネルギーの  “通気孔”になろうとしているのです。  もうすぐです。  地球の子供たちはこのことを知るようになるのです。  なんと孤独というものがこれほど甘美だとは!  これほど官能的で、これほど美しいものであったとは!  けっして愛する者を失うことではありません。  愛する方々、絆を持ったお友達たちと、ふつうの聖者さんたちはいつも一緒  です。  各層における、それぞれの理解が、存在をしています。  地球の子供たちが、この存在の悲しみと孤独と、そして、分離した者の葛藤、  孤立、疎外と呼ばれてきた心理的エネルギーの核を、みなさまは、なんと次  元意識の淵を超えるオリジナルのエネルギーに変えようとしているのです。  (P209-210)                       『スターチャイルドの誕生』              https://www.ascensionkan.com/books/starchild.html ---------------------------------------------------------------------- (*^_^*) 今日は、こんなところで。 m(_ _)m ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■ 2.旧稿再掲:〔比較と競争〕の2――「動物学校」の比喩 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 前回に続いて、『21世紀への指導原理 OSHO』から新しくHP掲載した ------------------------------------------------- 第八章  競争原理の射程距離 --比較と競争-- ------------------------------------------------- の内容のご紹介です。 「比較」が何であるかという論理を展開するための助走として目を通していた だけると嬉しいです。 なんにしても、和尚の「動物学校」の比喩は、とてもイメージ喚起力に富んだ 寓話です。 また、日本語の“比較”とか“判断”という言葉には「識別」の意味と、価値 観をともなった「断定」の意味が混在していますが、そのあたりの区別につい ても触れ始めています。 例によって、詰まった文はお断り、という方は飛ばしてくださいね。 では、「第八章 競争原理の射程距離――比較と競争――」より 今回はその二回目 “「動物学校」の比喩” です。 ----------------------------------------------------------------------  『21世紀への指導原理 OSHO』より    「動物学校」の比喩    OSHOは、「動物学校」という比喩を語る。  「ある日、森の動物たちが集まって、学校を始めることにした。集まったの  はうさぎ、鳥、りす、魚、うなぎで、みんなは自分たちで教育委員会を作っ  た。  うさぎは、カリキュラムに駆けっこを入れるように主張した。  鳥は、カリキュラムに飛ぶことを入れるように主張した。  魚は、泳ぎが入らなければならないと言い、りすは絶対に垂直木登りが入る  べきだと言い張った。  そしてこれを全部入れてカリキュラムを作った。  そして全員、みんなが全科目を履修しなければならないと強調した。  うさぎは駆けっこではAを取っていたが、垂直木登りはまったくの難問だっ  た。うさぎは木から落ち続け、じきに、一種の脳障害を起こして走ることも  できなくなった。それまでAだった駆けっこまでCを取るようになった。そ  して、もちろん木登りはいつもFだった。  鳥は飛ぶことにかけては実に素晴らしいものだったが、地面を掘るとなると  あまりうまくできなかった。  鳥はくちばしを折り、翼を折り続けた。間もなく鳥は穴掘りのFだけでなく、  飛ぶこともCになり、垂直木登りとなると、もう地獄の時間を過ごさなけれ  ばならなかった。  この話の教訓は、動物学校の卒業生総代に選ばれたのが全科目で中途半端な  成績だった知恵遅れのうなぎだったということだ。  だが、教育者たちはみんな、全員が全課目を履修したことで満足し、この教  育は“全範囲教育”と呼ばれた」と。  私たちは、この話を笑えるだろうか。  これこそまさに、子どもたちをすべて同じ尺度で測らなければならないと考  えている、現在の私たちの教育制度そのものの姿ではないか。  なぜ順番をつけなければならないのだろう。なぜ、向き不向きを発見するだ  けではいけないのか。そんなことは、誰もが知っているし、誰もが言う。  誰もが、そんなことは知っていると思う。  が、けっしてそうではない。「比較」は私たちの中にあるのだから。  中学校の図工の時間に、色彩の性質について教わったことがある。  色彩は、色相、明度、彩度という三つの基本軸に沿って展開するひとつの質  的な世界であり、各色彩はこの三つの軸で捉えることができる、というのだ  った。  色相とは、赤、青、黄のように色の世界の多様性そのもののことだった。  色相には、それぞれ相互に関連し合った固有の性格があるらしくはあったが、  個々の色相自体に上下関係があるはずもないことは、子どもながらに良く分  かった。  それに比べ、明度、彩度の方は、何やら階層として並べることができるよう  な感じもあったが、それはそういう固有の位置だといえば、また確かにそう  らしくもあった。  質的なものの「比較」とは、この色の「比較」のようなことだろう。  確かに、ある意味では“比べる”ことはできる。  暖色系は暖かい感じがするのに比べ、寒色系は寒いような感じがするという  ふうに。  だが、それは相互に支え合う関係ではあっても、例えば、暖かい感じが望ま  しいから色は暖色系だけがあればいいとか、さらには、赤が好きだから、色  は赤だけがあればいい、などという世界でないことだけは、中学生の自分に  も確かに分かった。  そうだとすれば、実際は、明度についても、彩度についても同じことがいえ  るはずだった。  明るい方がいいからと言って、一番明度の高い色があればいいわけではなか  った。一番鮮やかな色があればいいわけでもなかった。  それぞれの色が全体で色彩世界を支え合っていることは自明だった。  (p323-325)    https://www.ascensionkan.com/work/08hika_02doubutsu.html ---------------------------------------------------------------------- もし読んでいただけたのなら、ありがとうございます。^^; m(_ _)m ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■ 3.写経ニサルガダッタ: 【79 個人、観照者、至高なるもの】より ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ さて、今日のニサルガダッタ師匠からの写経です。 ニサルガ師匠は、「観照者」と「至高なるもの」を区別して語りますよね。 この質問者は、そのあたりの理解を詰めておきたかったのだと思います。 そしてこの質問自体は対話の途中の文脈から出てくるのですが、ここで最初に 引用した「行為は真我の実現に本質的なものなのでしょうか?」は、わたしに とってはとてもありがたい質問でした。 例によって、写経の箇所をすべて通しで最初に掲載しておきますので、本文だ け書いてもらえば充分という方は、そこだけ読んであとは飛ばしてください。 では、【79 個人、観照者、至高なるもの】からです。 ----------------------------------------------------------------------  質問者 行為は真我の実現に本質的なものなのでしょうか?    マハラジ  真我の実現にとっては、理解が本質的なものだ。  行為は偶然のものでしかない。  確固とした理解の人は行為を差し控えるだろう。  行為とは真理の試験なのだ。    質問者 試験が必要なのでしょうか?    マハラジ  もしあなたがつねにあなた自身を試験しなければ、実在と空想との区別はで  きなくなるだろう。  観察と注意深い理性はある程度の助けになる。  しかし、実在は逆説的なのだ。  思考と感情、言葉と行動を見守り、なぜ、どのようにして、あなたの知らな  いうちにそれらが変化していくのかを疑わないかぎり、あなたが真我を実現  したということをどうして知ることができるだろう?  本当に驚くからこそ、それが実在だと知るのだ。  予想され、期待されたものが実在であることはまれだ。    質問者 個人はどのようにして現れるのでしょうか?    マハラジ  光が身体によって遮られたとき、影が現れるのと同じように、純粋な自己覚  醒が「私は身体だ」という想念によって妨げられたとき、個人が現れる。  そして影が地上の光によってその位置と形を変えていくように、個人も運命  のパターンにしたがって喜んだり、苦しんだり、休息したり、あくせく働い  たり、見いだしたり、失ったりするように現れて見えるのだ。  身体がもはやなくなったとき、個人は再帰することなく完全に消え去る。  ただ観照者と偉大な未知なるものだけが残るのだ。    観照者は「私は知っている」と言い、個人は「私は為す」と言うのだ。  「私は知っている」ということは、真実に反することではない。  それは単に限定されているだけだ。  しかし、「私は為す」ということは、まったくの間違いだ。  なぜなら、そこには為す人など誰もいないからだ。  行為者であるという観念さえ含めたすべてはひとりでに起こるのだ。    質問者 それでは、行為とは何なのでしょうか?    マハラジ  宇宙は行為であふれている。  だが、そこに行為するものはいないのだ。  そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ  して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。  だが、それが行為の世界(マハーダカーシュ)はすべてに依存し、すべてに  影響する単一の統一体だという事実を変えることはない。  星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。  行為から意識へと一歩退き、行為は身体とマインドにまかせなさい。  行為はそれらの領域なのだ。  観照者さえも至高なるもののなかに消え去るまで、純粋な観照者としてとど  まりなさい。    木々でいっぱいの密林を想像してみなさい。  木材から板が切りだされ、一本の小さな鉛筆でその板に書いていく。  観照者は書かれたものを読み、そして鉛筆と板は密林に間接的に関係しては  いるが、書かれたことはそれとは何の関係もないことを知る。  それは完全にその上に付け加えられたものであり、その消滅には何の重要性  もないのだ。  人格の消滅にはつねに大いなる解放の感覚が続くものだ。  あたかも重荷が落ちたかのように。     質問者 あなたが、「私は観照者を超えた彼方にいる」と言うとき、どのよ      うな体験があなたにそう言わせるのでしょうか? それはただの観      照者としてある段階とはどのように違うのでしょうか?    マハラジ  それはプリント地の布を洗うようなものだ。  はじめにデザインが消え、それから背後の色が落ち、最後に布が真っ白にな  る。  人格は観照者に場をゆずる。  それから観照者は去り、純粋な気づきが残るのだ。  布は、はじめは白く、終わりも白い。  パターンと色はしばらくの間ただ起こっただけだ。    質問者 気づきの対象物なしに気づきはありうるのでしょうか?    マハラジ  気づきとその対象物を、私たちは観照と呼ぶのだ。  そこに欲望や恐れによって起こる対象物との自己同一化があるとき、そのよ  うな状態が個人と呼ばれるのだ。  実際にはただひとつの状態があるだけだ。  自己同一化によって歪曲されたとき、それは個人と呼ばれる。  それが存在の感覚で色づけされたとき、それが観照者であり、色も限定もな  いとき、それは至高なるものと呼ばれるのだ。                『I AM THAT 私は在る』(p418-419)  http://tinyurl.com/s747u ---------------------------------------------------------------------- 単にマインドだけのことにしても、ここでの応答を理解したとはとても言えま せん。 しかし、それでいながら、ある種の喚起力にとても富んでいて、具体的な意味 はわからないなりに、方向性が理解できるという応答だと思います。 > 質問者 行為は真我の実現に本質的なものなのでしょうか? これ、是非とも、マハラジに訊いておきたいことでした。 それは、行為とは何か、ということでもあります。 > マハラジ > 真我の実現にとっては、理解が本質的なものだ。 おお、やっぱり。 > 行為は偶然のものでしかない。 そうか。 > 確固とした理解の人は行為を差し控えるだろう。 なるほど。 “確固とした理解”がある人なら無用な行為は必要ない、と。 > 行為とは真理の試験なのだ。 そうか。 理解が真性のものかどうかが確証されるためには、「行為」という試験を通ら なくてはならないわけだ。 > 質問者 試験が必要なのでしょうか? それは、必要なのか? > マハラジ > もしあなたがつねにあなた自身を試験しなければ、実在と空想との区別はで > きなくなるだろう。 ほう。(@_@) どういうことだろう? > 観察と注意深い理性はある程度の助けになる。 ある程度の。 > しかし、実在は逆説的なのだ。 (?_?) > 思考と感情、言葉と行動を見守り、なぜ、どのようにして、あなたの知らな > いうちにそれらが変化していくのかを疑わないかぎり、あなたが真我を実現 > したということをどうして知ることができるだろう? ああ、そういう状況のことを言っているわけね。 > 本当に驚くからこそ、それが実在だと知るのだ。 なるほど、そうか。 だからこそ、確信が持てるのか。 たしかに、それだったら疑いは起こらないわけだよね。 > 予想され、期待されたものが実在であることはまれだ。 へー、そうなんだ。 > 質問者 個人はどのようにして現れるのでしょうか? 質問の切り口を変えたね。 > マハラジ > 光が身体によって遮られたとき、影が現れるのと同じように、純粋な自己覚 > 醒が「私は身体だ」という想念によって妨げられたとき、個人が現れる。 なるほど、「個人」幻想が「私は身体だ」という想念の影だというのは、納得 できる気がする。 > そして影が地上の光によってその位置と形を変えていくように、個人も運命 > のパターンにしたがって喜んだり、苦しんだり、休息したり、あくせく働い > たり、見いだしたり、失ったりするように現れて見えるのだ。 洞窟の影か……。 > 身体がもはやなくなったとき、個人は再帰することなく完全に消え去る。 ああ、「私は身体だ」という想念をもう維持できなくなるわけか。 > ただ観照者と偉大な未知なるものだけが残るのだ。 観照者と観照者を映し出す存在の光と、かな。 > 観照者は「私は知っている」と言い、個人は「私は為す」と言うのだ。 ああ、それはわかりやすい言葉。(@_@) > 「私は知っている」ということは、真実に反することではない。 うん。 > それは単に限定されているだけだ。 なるほど。「私」に限定されているわけだ。 > しかし、「私は為す」ということは、まったくの間違いだ。 (@_@) > なぜなら、そこには為す人など誰もいないからだ。 (>_ 行為者であるという観念さえ含めたすべてはひとりでに起こるのだ。 うーん。 これは、マインドの理解の届かない範囲。 > 質問者 それでは、行為とは何なのでしょうか? よし。 > マハラジ > 宇宙は行為であふれている。 > だが、そこに行為するものはいないのだ。 おおー。 > そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ > して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。 おおー。 さまざまな次元の人間たち、創造神たちがいるわけか。 > だが、それが行為の世界(マハーダカーシュ)はすべてに依存し、すべてに > 影響する単一の統一体だという事実を変えることはない。 “自分”を「個人」や「行為者」だと考えるたくさんの人間たちや創造神たち の幻想が、宇宙が単一の統一体であるという事実を変えることはない、と。 > 星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。 宇宙のなかでは森羅万象が相依相属している。 太陽が存在しなければわれわれが生存しえないのは自明だが、それほど自明で はないにしろ、われわれもまたその太陽に影響を与えているのだ、と。 > 行為から意識へと一歩退き、行為は身体とマインドにまかせなさい。 “行為を身体とマインドにまかせる”……、そんなことができたら。(;_;) > 行為はそれらの領域なのだ。 う。 > 観照者さえも至高なるもののなかに消え去るまで、純粋な観照者としてとど > まりなさい。 (;_;) > 木々でいっぱいの密林を想像してみなさい。 (?_?) > 木材から板が切りだされ、一本の小さな鉛筆でその板に書いていく。 うん? (?_?) なに?  「板」が「身体」で、「一本の小さな鉛筆」が「マインド」ってことかな? > 観照者は書かれたものを読み、そして鉛筆と板は密林に間接的に関係しては > いるが、書かれたことはそれとは何の関係もないことを知る。 それはまた、どういう意味? “書かれたこと”が「行為」ってこと? 観照者は書かれたもの(「行為」)を読み、そして鉛筆(「マインド」)と、 板(「身体」)は密林(「意識」)に間接的に関係してはいるが、書かれたこ と(「行為」)はそれとは何の関係もないことを知る、ってことかな? > それは完全にその上に付け加えられたものであり、その消滅には何の重要性 > もないのだ。 どういうこと? それ(「行為」)は完全にその(「意識」)上に付け加えられたものであり、 そ(「行為」)の消滅には何の重要性もない、ってことかな? > 人格の消滅にはつねに大いなる解放の感覚が続くものだ。 それは、言葉としてはわかるけど。 > あたかも重荷が落ちたかのように。 うん。 > 質問者 あなたが、「私は観照者を超えた彼方にいる」と言うとき、どのよ >     うな体験があなたにそう言わせるのでしょうか? それはただの観 >     照者としてある段階とはどのように違うのでしょうか? そうそう。 “観照者を超えた彼方”って、他の覚者からあまり聞かない表現だよね。 > マハラジ > それはプリント地の布を洗うようなものだ。 (@_@) > はじめにデザインが消え、それから背後の色が落ち、最後に布が真っ白にな > る。 あ、これはインド緬の染めだ。(*^_^*) いやいや、そんなことを言ってる場合じゃないぞ。^^; > 人格は観照者に場をゆずる。 うん、瞑想の進み具合の話ね。 > それから観照者は去り、純粋な気づきが残るのだ。 そこまで、確立すればねぇ。 > 布は、はじめは白く、終わりも白い。 それが、実存か。 > パターンと色はしばらくの間ただ起こっただけだ。 パターンと色というのが現象か。 > 質問者 気づきの対象物なしに気づきはありうるのでしょうか? こういう質問は、よくあるよね。 > マハラジ > 気づきとその対象物を、私たちは観照と呼ぶのだ。 ああ、なるほど。 これはとても明確な定義。 > そこに欲望や恐れによって起こる対象物との自己同一化があるとき、そのよ > うな状態が個人と呼ばれるのだ。 そこに“対象物との自己同一化”があるとき、その状態を個人と呼ぶ、と。 > 実際にはただひとつの状態があるだけだ。 (?_?) > 自己同一化によって歪曲されたとき、それは個人と呼ばれる。 ああ。 > それが存在の感覚で色づけされたとき、それが観照者であり、色も限定もな > いとき、それは至高なるものと呼ばれるのだ。 なるほど。 だから、「実際にはただひとつの状態があるだけ」と言うわけか。 実在するただひとつの状態、すなわち<実在>が、 “自己同一化によって歪曲されたとき、個人”と呼ばれ、 “存在の感覚で色づけされたとき、観照者”と呼ばれ “色も限定もないとき、至高なるもの”と呼ばれるのか。 なるほど……。 ニサルガ師匠のターミノロジー(用語法)はわかった。 (-||-) 今日の写経は、ここまでです。 m(_ _)m         …………○…………○…………○………… 『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。 https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html もしこの「目次」の中から興味を惹かれたタイトルをリクエストしてくださる 方があれば、その箇所を優先して“写経”いたします。 よろしければ、気が向いたときにお付き合いください。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■ 4.編集後記: それ以上のことなど、あるはずもないのだから。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この『アセンション館通信』が“アセンション”情報について書いているかど うかはともかく、「わたし」の促しに応じていること、そして「わたし」の役 に立っていることだけは確かだと思う。 だったら、申し分ないじゃないか。 それ以上のことなど、あるはずもないのだから。 迫ってくるのは、アセンションなのか。 単なるひとつの加速のチャンスなのか。 「わたし」が支える「世界」のなかのサムボディたらんとする欲望だけは、ど うやら退潮しつつあるような気がする。 いずれにしろ、自然現象は進行していくさ。 この地球という舞台の上で。 お世話になっています。 というわけで今回も……。 前号に続いて、著者のご了解を得ている「祈願文」という内容の文章を掲載さ せていただきます。 ------------------------------------------------------------------ 17.2001.7.7 地球さんへ             【 祈 願 文 】  56億年の永きにわたり、多くの魂に学舎を提供されてきた、地球さん、 本当にありがとうございました。 満身創痍でボロボロになりながらも、一言の愚痴も言わず、ただひたすら 大いなる愛で耐えてこられたあなたに、深く感謝いたします。 もうすぐ光の次元へ戻られるとのことですが、一日も早く傷を癒され、 元気な姿で光に還られますよう心よりお祈りいたします。 天の父よ、天の母よ、どうか私達の祈りを聞き入れ、地球さんにたくさんの 癒しの光をお送り下さい。            海よ山よ空よ森よ川よ    よみがえれ          生きとし生けるもの全て  よみがえれ             地球よ         よみがえれ ------------------------------------------------------------------ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━   → メール: pari♪jk2.so-net.ne.jp(“♪”→“@”に。m(_ _)m) ---------------------------------------------------------------------- 『アセンション館通信』の既刊号を毎日連続で配信いたします。 連続配信をご希望の方は“『アセンション館通信』連続配信依頼フォーム” https://www.ascensionkan.com/mm/deliver.html ↑より、空メールをお送りください。翌日より毎日配信されます。 ただし、これからの号の購読にはメルマガ登録が必要です。(無料) ---------------------------------------------------------------------- このメールマガジンは二つの配信スタンド 『まぐまぐ!』http://www.mag2.com/ と『melma』 http://www.melma.com/ を利用させていただいて発行しています。 「まぐまぐ」からの配信中止は:http://www.mag2.com/m/0000126287.htm ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ Copyleft(C)2006 paritosho コピーレフト↑の概念についてはこちら↓をご覧ください。 http://now.ohah.net/commune/?license/copyleft.html ----------------------------------------------------------------------
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