━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
☆☆ ☆☆
☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2015/11/08(第604号)
☆☆ ☆ ☆☆
☆☆ ☆★ 【気刊】――「私は在る」に導かれ♪――
-☆☆---------☆☆------------------------------------------
☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人 pari と称するあるパターンに
浮上している心象風景の報告です。
かつて起こってきたこと、いま起こっていること、起こるであろう
一切は、寸分の狂いなく全知全能の源泉の意志にしたがっている。
したがって、創造もなく、破壊もなく、道もなく、目標もなく、
自由もなく、運命もなく、何も起こっていない。
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在858名
------------------------------------------------------------
◇◇ もくじ ◇◇
1.【立場】の根拠と「運がよければ」
2.編集後記
------------------------------------------------------------
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.【立場】の根拠と「運がよければ」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
昨日までの雲一つない晴天とかわって、今日は雲がたなびく秋空で
すね。
まわりの山は紅葉しはじめているので。これも秋の風情です。
サンデッキもペンキを塗って、また少し改まりました。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、楽しい“アセンション噺”ならぬ
「私は在る」噺に、お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人の pari です。
みなさま固有の「私は在る」を、いかがお過ごしでしょうか?
何がどうということもないのですが、気持ちがだんだん楽になって
きているのかもしれません。
というか、単に悩む能力の低下でしょうか。
じっさい、十年以上ももこんなことを書きつづけていれば、それく
らいの効果があっても当たり前かもしれません。
いや、考えてみれば、そうでもないかなぁ。
主観的にどんなに努力しても驚くほど惨めで報われない人生だって、
掃いて捨てるほどあるんじゃないのかなぁ。(-_-)
意識が夢見ている夢のなかの登場人物としては、ありがたいことに、
わたしはそれほど酷い役割でもないのでしょう。
若いころは、客観的には何も不幸になる原因なんかないのに、ひた
すら不幸をかこっていたものです。
でも、その不幸探求エネルギーも、ほぼ消費しつくされたのかもし
れません。
もう、そんなに不幸を探すエネルギーが残っていないのでしょう。
不幸も幸福も、【見かけ】に対するただの解釈にすぎない。
日増しに浸透してきているのはこんなメッセージです。
------------------------------------
すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。
この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に
努力することなく帰り着くだろう。
『私は在る』(p27)
------------------------------------
> すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。
このマハラジの言葉の意味が、いやでも事実であることが理解され
てきて。
このマハラジの言葉、どういうことかわかりますか?
われわれが御大層に掲げる人生の「意味」とか「定義」といったも
のは、すべて身体のことだというのです。
それも身体自身の表現ですらない。
身体自身がそういうことを言っているわけではない。
ただ身体という一見明確な【見かけ】の範囲を根拠に、その立場を
勝手に憶測し、拡大解釈した恣意的見解にすぎない、と。
まあ、誰が憶測し、誰が拡大解釈しているわけでもないのでしょう。
現象世界にはどんな分離独立した「行為者」もいないのだから。
ここでの、マハラジの言い方はここまでです。
でも、ラメッシ・バルセカールふうに敷衍するなら、それもまたこ
のような人生があるための「リーラ(神の遊び)」です。
まあ、「リーラ」まで話を拡大しなくてもいいですけど。
あらゆる「定義」、あらゆる「意味」が、一見明確な身体という
【見かけ】の範囲なしには、ありえないことは自明です。
これまで聞いたことがあるすべての物語は、身体を根拠に紡ぎださ
れた空想物語だったんですね。
人生のすべての「定義」とか「意味」は、すべてある立場を前提に
想像され、それが無際限に拡大解釈された見解です。
そしてその【立場】の根拠は、一見明確な身体という【見かけ】の
範囲以外にはありえないのです。
多次元宇宙にわたる深遠な真理もアセンションも、すべて身体とい
う【見かけ】の範囲を根拠に空想され法螺話です。
なぜなら、現象宇宙のなかに、全体から分離・独立して存在できる
どんな身体も意図(行為者)も存在していないからです。
むろん、ラマナ・マハルシが言ったように、どんなお話に相当する
対象物も、我々の存在程度には確実に存在するでしょう。(^^;)
宇宙美術館内のどの作品に近づいても、必ずもっともらしい綿密な
解説音声つきで、その作品が展示されているようなものです。
人生の意味とは、すべて想像だったんですね。
------------------------------------
そこにはただ感覚、知覚、記憶、そして観念の流れがあるだけだ。
身体とは抽象的観念であって、多様性のなかに統合を見いだそう
とする私たちの傾向にすぎず、それは何も間違ったものではない。
『私は在る』(p153)
------------------------------------
> そこにはただ感覚、知覚、記憶、そして観念の流れがあるだけだ。
実際に、本当に、そうなんですね。
> 身体とは抽象的観念であって、多様性のなかに統合を見いだそう
> とする私たちの傾向にすぎず、それは何も間違ったものではない。
我々は現象世界のパターンから、「形」を根拠にすぐに抽象概念を
編み出してしまいます。
赤ん坊のころに見ていた感覚や知覚は、やがて記憶され、教わった
概念を基にして、すぐに観念化されるようになります。
そして、感覚と知覚と記憶の流れに観念の流れが織り込まれるよう
になり、やがて大人たちと同じような人生が体験される。
もちろん、自分の立場の最大の根拠になるのは、この身体です。
いったん常識として受け入れられたこの身体という概念は、やがて
さらに抽象度を高め、その範囲を拡大していきます。
家族、地域、国、ブロック、星、星団などと。
あたかもそういう身体をもつ自己があるかのように。
このような括りが抽象概念であることは、すぐにわかります。
しかし、その根拠となった自分の身体自体も、じつはひとつの抽象
概念でしかないことは、簡単には理解されない。
でも、事実は、この身体が自分だというのは、細胞や腸内細菌から
は許可を得ていない、代表権の簒奪かもしれません。(^^;)
> 身体とは抽象的観念であって、多様性のなかに統合を見いだそう
> とする私たちの傾向にすぎず、それは何も間違ったものではない。
ニサルガダッタが保証しているのだから、「何も間違ったものでは
ない」のでしょう。^^;
しかし、それは抽象概念であり、現象のなかに何一つ分離して存在
できるものがない以上、元を正せばすべて単なる想像です。
------------------------------------
そこには想像があるだけだ。
知性とエネルギーは、あなたの想像のなかですべて使い果たされ
てしまった。
あなたはまったく想像に夢中にさせられてしまったため、どれほ
ど実在から遠く離れてさまよい歩いたのかさえわからなくなって
しまったのだ。
想像が豊かな創造力であることに疑いはない。
宇宙のなかの宇宙も、想像によって構築されているのだ。
それにもかかわらず、それらはみな空間と時間、過去と未来のな
かにあり、実際は存在しないのだ。
『私は在る』(p306-307)
------------------------------------
> そこには想像があるだけだ。
事実、そうなんだなぁ。(-_-;)
> 知性とエネルギーは、あなたの想像のなかですべて使い果たされ
> てしまった。
想像世界のなかで生き延びることに、こんなに夢中になってしまっ
たんだ。(*-_-*)
> あなたはまったく想像に夢中にさせられてしまったため、どれほ
> ど実在から遠く離れてさまよい歩いたのかさえわからなくなって
> しまったのだ。
今となっては、人生は事実ではない、ただの想像だ、なんて言って
も、だいたい誰にも問題にされないよなぁ。
というか、自分が本気にしないんだ。(-_-)
え、自分って!? (@_@) ⌒★?
(*^_^*)
まあ、そんな具合だよなぁ。(-_-)
> 想像が豊かな創造力であることに疑いはない。
たしかに。
> 宇宙のなかの宇宙も、想像によって構築されているのだ。
そう、このメルマガを書き始めた時も……、アセンションとかって、
まるで何かを知っているかのように。(*-_-*)
> それにもかかわらず、それらはみな空間と時間、過去と未来のな
> かにあり、実際は存在しないのだ。
「それらはみな空間と時間、過去と未来のなかにあり」……。
そう観念のなかにあり……。
「実際は存在しないのだ」……。
実際には存在していない。
だから、永遠に落ち着くことはできないわけです。
……。
このごろブログ「resonanz360」のヒロさんが翻訳された
『つかめないもの』を時々読んでいます。
ヒロさんが翻訳されるジョーン・トリフソンはとても好きなのです
が、このごろ本当に本を読むのが遅くなってしまって。
開いては1、2ページ読んで、満腹しています。
どのページもとても包括的な観点からのあまりにも洞察的な言葉に
満ち溢れています。
というか、読んで意味はわかるんだけど、自分が理解しているよう
な気がしない、というわけです。(^^;)
どこのページもじつに決定的な言葉が展開されていて、引用なんて
始めたら、終わらなくなるような感じで。
で、今朝、ふと開いたページで目に入ったのが、この言葉でした。
きっと、【運がよければ】という言葉に反応したのでしょう。(^_-)
------------------------------------
思考意識はどんなときでもものごとをはっきりさせ、理解し、よ
って立つことのできるしっかりした足場を見つけようとします。
思考意識は、あらゆることに関する観念-自分を改善して今の場
所よりも好ましいどこかへ行くために「私」は何をすべきかとい
う観念-を、数かぎりなく抱えています。
運がよければ、わかりはじめます。
思考意識は運転席にはいないこと、いたことは一度もないこと、
思考意識は「私」であるふりをしているけれども、じつはその
「私」は今この瞬間の実際の経験に上書きされた一種の思考イメ
ージにすぎないこと、私たちはいつでも(ここ・今)にいて、し
たがってどこにも向かってはいないということが。
運がよければ、どこか別の場所についての思考や記憶や空想(い
つの日にか(ここ・今)にたどりつくための方法についての思考
など)よりも、(ここ・今)にもっと関心を持ちはじめます。
運がよければ、生という絶えず変化し続けている表現を超えた出
来事をつかむという見込みのないもくろみではなく、実際に起こ
っている直接的な経験という無根拠性に自分がもっと興味を惹か
れていることに気づきます。
生を観念形態にまとめてからそれにしがみつこうとするのをやめ
て、そのかわりに、まったく今あるようにただ生であるというこ
とに溶け去ります。
どこに行ったとしても、私たちはいつでもここにいます。
そして、生はまさに今起こっているとおりに展開しているのだと
いうことを、どんなときも信頼することができます。
「もし~だとしたら」、「~だったらいいのに」、「私はまだそ
こにたどりついていない」、「これは違う」、「こうあるべきで
はない」といった思考は、私たちをみじめにします。
こうした種類の思考を考えないように「決断する」ことはできま
せん。
それはうまくいきません。
けれども、探し求めたり、つかもうとしたり、「現実に異議を唱
える」ことがどのように起こっているかをただ見るとき、思考意
識のそういう癖や傾向が徐々に土台を崩されていくということに
気づくかもしれません。
思考意識が格闘しているようすを、それが起こっているときにた
だ(何度も繰り返し)見ることによって、そしてそれが苦しみの
ひとつの形態だということに気づくことによって、そうした癖は
自然に脱落しはじめます。
『つかめないもの』(p123-124)
------------------------------------
(-||-)
身体という【見かけ】の境界を根拠に紡ぎだされた夢の一大伽藍か
ら降りるための、ひとつの降り口がこれだったのかもしれません。
【運がよければ】……。
> 運がよければ、わかりはじめます。
是非わかりたいものです。(^人^)
> 運がよければ、どこか別の場所についての思考や記憶や空想(い
> つの日にか(ここ・今)にたどりつくための方法についての思考
> など)よりも、(ここ・今)にもっと関心を持ちはじめます。
あーあ、たしかに。(-_-)
> 運がよければ、生という絶えず変化し続けている表現を超えた出
> 来事をつかむという見込みのないもくろみではなく、実際に起こ
> っている直接的な経験という無根拠性に自分がもっと興味を惹か
> れていることに気づきます。
そうかぁ……。
【運がよければ】……。
ラメッシ・バルセカールだったら、
「もしそうなることになっているなら」……
と言うところなのかもしれません。
運がよければ……そうありたいものです。
いい運も悪い運も、すべては自然現象なのだという感じがします。
誰が悪いわけでもない。
そもそも誰もいないのだから。
もしかしたら、ジョーン・トリフソンの『つかめないもの』には、
また触れる機会があるかもしれません。
------------------------------------
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
------------------------------------
はい。
(-||-)
------------------------------------
永久的なもの、それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
------------------------------------
……。(-_-)
ありがとうございました。
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」はここ↓に置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
新しい「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
………○…………○…………○………
▼『アセ通』への「私は在る」関連ご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
というのを作らせていただきました。(^^;)
「私は在る」に関するご意見・ご感想・シェアリング、または単な
るメールなど、ご自由にお書きいただければと思います。
………○…………○…………○………
『アセンション館通信』への「情報提供」を歓迎いたします。
▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
………○…………○…………○………
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
御心がなされますように。
いや、御心だけがなされているのです。
今日はお客さんがあるので早いうちに終えておきます。
良い休日をおすごしください。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
→ メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
------------------------------------------------------------
このメールマガジンは二つの配信スタンド
「まぐまぐ」は:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
「melma」は :http://www.melma.com/backnumber_110091/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2015 paritosho
------------------------------------------------------------