━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2019/8/18(第800号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
このメルマガはアセンション館主人pariと称するあるパターンに
浮上している夢の場面の報告です。
あらゆる経験は透明な観照意識の中の現れにほかならない。
苦しみはない。なぜなら何らかのラベル、つまり別の現れがなけ
れば、何かが「苦しみ」であることはありえないとわかるからだ。
(『ダイレクトパス』)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。現在814名
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◇◇ もくじ ◇◇
1.自分はどこにいるか?
2.いただいたお手紙から:komalaさん
3.編集後記
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■ 1.自分はどこにいるか?
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台風の長期滞在が終わると暑くなりましたね。
(*^_^*)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”ならぬ「私は在る」噺に、
お付き合いいただく今がやってまいりました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
グレッグ・グッドの『ダイレクトパス』
https://amzn.to/2O7s8Un
を読んでいます。
たとえば、
「困った状態」というのがあるとします。
通常これは、
自分は困った状態にいる、
という意味だということになります。
通常はあっさり納得されこの理解には
その背景に構造的理解が前提されています。
少なくとも次のような構造くらいは
暗黙のうちに前提されているはずです。
(1)自分というものが存在している。
(2)その自分は身体に閉じ込められている。
(3)その身体の中にいる自分が意識をもっている。
(4)したがって身体の存続の危機は
意識している自分の存在を脅かす。
「ダイレクトパス」にかぎらず、
おしなべて非二元の教えは上に挙げた各陳述を
すべて虚偽と断定します。
シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンの
教えに基づく「ダイレクトパス」では
直接の経験を吟味することで
上述の陳述がすべて嘘であることを
確認してゆきます。
上記の陳述がすべて嘘であることが
自分の直接的体験として確認されているのなら、
もう現象世界に「困った状態」などは
ありえないことになります。
個々の陳述を見ていきます。
(1)自分というものが存在している。
現象に気づいている主体を「自分」と呼ぶのであれば、
この陳述はあながち嘘というわけでもなさそうです。
自分は存在している。
存在そのものが自分である。
「私は在る」……というわけですから。
その自分に対して、
あるいは自分という背景のなかで、
すべての現れが起こっているわけです。
もちろん、通常の用法の自分は
そのような意味ではありません。
通常の意味での自分とは
現れの中に分離独立して存在している自分です。
すべての現れに気づいている自分ですが、
その自分自身も現れのなかに存在するので、
気づきが起こる場所として想像される
身体に同一化しているわけです。
すると自分は見かけの中の
ある一部に拘束されているわけですから、
かなりつらい想像のなかで生きているわけです。
(2)その自分は身体に閉じ込められている。
グレッグ・グッドの『ダイレクトパス』では、
自分が身体に閉じ込められているという観念を
「感じる主体としての身体」
「容器としての身体」
という2つの節で検証実験しています。
「容器としての身体」のなかに
「実験13──テント」という実験があります。
身体についての実際の直接的感覚体験と
「テント」を使ったアウトドア体験を比較した
とてもおもしろい叙述です。
アウトドアの「テント」の体験なら
テントの内側を体験することもできれば、
外に出て外を見ることもできるし、
その境目のテントを確認することもできます。
でも、
身体の直接的感覚体験では、
内側の客観的存在を確認することも、
外側の客観的存在を確認することも、
内側と外側の隔壁の客観的存在も確認できない。
確認できるのは
そのすべてが気づき(の内容)であることだけです。
(3)身体の中にいる自分が意識をもっている。
身体の中にいる自分という観念については
『気づきの視点に立ってみたら……』
https://amzn.to/2O7s8Un
のなかに「自分とは何か」という
とてもユーモラスな章があります。
この章の質問者は
すでに気づきとは無関係に
物質が客観的に存在している
とは思っていません。
いわば物質の脱構築を終えていて、
自分が身体だとは思ってはいないわけです。
にもかかわらず
自分が身体のなかにいる感覚も否定できないという
いわばわれわれととても近い感覚の方です。(*^_^*)
ちょっと長く引用させていただきます。
願わくば、これがこの本からの無断引用ではなく、
この本の無料宣伝になりますように。(-||-)
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──でも自分が身体でないことは
わかっているんです。
身体は時間とともに変化しますが、
自分はその変化を見ているものです。
それに自分が不変の存在だということも
わかかっています。
それでも自分が身体の「内側」にいるように
感じているわけですね?
──ええ。この視点からしか、
物事を見ることができないんです。
もしも自分がこの身体の内側にいないとしたら、
どこにでも移動できるでしょうし、
あらゆるものをどんな視点からでも
見ることができるでしょうね。
『気づきの視点に立ってみたら……』(p127)
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なんだかまるでわたしの感覚を
代弁していただいているような。(*^_^*)
グレッグ・グッドはこう尋ねます。
──────────────────
身体のどこか特定の場所に
自分がいるような気がしますか?
──ええと、どうだろう……
腰より上にいると感じますか?
それとも腰よりも下にいますか?
──腰より上です、確実に。
わかりました。
では首より上にいるように感じますか、
それとも首より下にいるように感じますか?
──首より上です。
はい。
鼻より上ですか、下ですか?
──上です。
さらに絞り込めますか?
──目の後ろに自分がいるような気がします。
大きさはどのくらいですか?
どんな形をしているでしょうか?
──ええと、
幅が三センチくらいで丸い形です。
額の奥ですか?
左、右、真ん中、どのあたり?
──目の裏の真ん中にいるように感じます。
目からどのくらい離れていますか?
──ええと、三センチほど後方です。
なるほど。
あなたを見つけましたよ!
ビー玉くらいの大きさの球体で、
額の真ん中の三センチほど後方にいます!
──そのようですね……(微笑)
さて、そのビー玉は何に対して
現れているのでしょうか?
─なんですって?
いいですか、
こうして話しているとき、
その小さなビー玉はイメージとして
現れているのではないですか?
──ええ、そうですね。
もしそのイメージが現れているのであれば、
それは何に対して現れていますか?
つまり、
そのビー玉が見ているようには思えません。
ビー玉は見られているようですね。
ええ、わかります。
小さなビー玉は見ている側ではなく、
見られている方です。
ということは、
それは自分についてのただの観念なんですね。
そうです。
いくつかの習慣的な要素によって、
そういう観念が生じます。
たとえば、
視覚は聴覚や味覚や嗅覚よりも
目立つという要素があります、
さらに、自分について考えることと、
前頭部の微妙な筋肉の収縮とが、
年月とともに結び付けて考えられるようになる
ということもあります。
そのせいで自分がそのあたりにいると
感じるようになるんです。
さて、ビー玉のイメージのこと、
それからビー玉のイメージに
気づいているもののことを考えてください。
もし、自分の本当の自己が
どちらか一方にあるとしたら、
あなたは見ている側にいるでしょうか?
それとも見られている側にいるでしょうか?
──見てる側です。間違いありません。
私がこのビー玉を見てるように感じます。
自分がビー玉の内側にいるなんてありえません。
『気づきの視点に立ってみたら……』(p127-131)
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質問者は一気に
自分が身体の中にいることなど
ありえないと理解してしまいます。
グレッグ・グッドはさらに確認を進めます。
──────────────────
ええ。
では、ビー玉を見ることについてですが。
この視覚について考えてみましょう。
視覚が生じているとき、
それはどこかの場所で生じているでしょうか?
──いいえ。
視覚がどこかで生じている
という経験はしていません。
視覚は脳内で生じているはずだ
と言ってもいいですが、
それはただの観念です。
経験そのものには場所はまったくありません。
ああ、そうか!
それです!
経験に限らず、
どこかの場所で起こることは何もありません。
ものごとは気づきの中で起こりますが、
その気づきがあなたの自己です。
分離していない、
あらゆるものの自己なんです。
──これがわかったいま、何か別のことを
経験したいという欲求はありません。
経験がどこかで起こっているとか、
誰かの内側で起こっている
というようなことは意味をなしませんね。
『気づきの視点に立ってみたら……』(p132)
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経験が誰のものでもないと
わかってしまったわけですから、
この方、勾配が速いですね。(^_-)
ここで再掲すると
(3)身体の中にいる自分が意識をもっている。
知覚の対象である身体の中に“自分”がいて、
その“自分”が気づいている、
つまり身体が「気づき」を所有している
などということは
単に私たちが抱える偽りの観念にすぎず、
そんなことがありえないことが
これで自明になったと思います。
実際は、身体も想念も
気づきのなかで
気づきに対して起こっている、
気づきの内容にすぎません。
(4)したがって身体の存続の危機は
意識している自分の存在を脅かす。
ここまで見てくると、
この陳述がほとんど意味をなさないことが
よくわかると思います。
要するに、
いい夢を見たいという執着のなかで
苦しんでいるだけなのです。
この身体は
他の何億何十億という身体のひとつとして
早晩消えることでしょう。
しかしそのことが
気づきにいささかの変化も
もたらすはずもありません。
マハラジが
執着としてのわれわれに語るときは
変化するものはあなたではない、
と言うかもしれません。
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あなたのものとは映画のスクリーン、
光、そして見る力だ。
だが、映像はあなたではない。
『私は在る』(p463)
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しかし、
クリシュナ・メノンが
「ダイレクトパス」の弟子に語るときは、
すべてはあなただと言うのでしょう、
そしてマハラジもまた
別の質問者にはこのように語るのです。
──────────────────
世界には何の間違いもない。
誤りはあなたの見方にあるのだ。
あなたを惑わせるのは、
あなた自身の想像だ。
想像なしには世界もない。
あなたが世界を意識しているという確信が
世界なのだ。
あなたが知覚している世界は
意識でできている。
あなたが物質と呼ぶものは
意識そのものなのだ。
あなたは、
そのなかで世界が動く空間だ。
あなたは永遠に続く時間だ。
あなたはそれに生命を与える愛なのだ。
『私は在る』(p304)
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今こうして読むと、
なんと懇切丁寧な言葉であることか。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
『私は在る』の「目次」をここ↓に置いておきます。
https://www.ascensionkan.com/books/I_AM_THAT-index.html
ときどき「ニサルガ辞書」で遊んでみてください。
https://www.ascensionkan.com/ndic/
「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
おこがましくも『アセ通』既刊号はすべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/
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■ 2.いただいたお手紙から:komalaさん
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▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702
「私は在る」に関するご意見や単なるメールなど、
ご自由にお書きください。
………○…………○…………○………
今回、しばらくぶりでkomalaさんから
個人メールをいただきました。
ご本人に特にお断りもしていませんが、
ここでご紹介しますね。
【件名】:選挙を終えて
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こんにちは
>> 山本太郎さん、ずいぶん頑張ってますね。(*^_^*)
> 大西つねきさんは、どうですか?
では、では、またね。
pariさまへ komalaより
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komalaさん、ここで紹介させてもらいましたよ。
あしからず。(^_-)
> 大西つねきさんは、どうですか?
ええ、大西つねきさんには
去年から関心を持っていました。
山本太郎さんが声をかけたのを知って、
太郎さん、やるなぁと思いましたよ。(^^)/
個人も抽象概念なら、
日本も抽象概念、いわば想像なんですね。
すべては自分なんですかねぇ。
komalaさん、ありがとうございました。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
▼『アセンション館通信』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518
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■ 3.編集後記:
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すべての現れが起こっているのは
気づきである自分に対してです。
それは紛れもない事実です。
ならばすべての現れは自分です。
・経験が違ったものになることを願っていない
──そのような概念はもう意味をなさない。(p405)
そのような理解を願ったりして。(*^_^*)
すっかり晩くなりました。
おやすみなさい。
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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