「湘南名画鑑賞会」会報 No.12
映写窓の後ろから⑫
第十四回上映会(上映映画『市民ケーン』)
1987年6月21日(日)、場所:湘南名画鑑賞会サロン
前回の『東京物語』、いかがでしたか。
ラフカディオ・ハーンの作品が望遠鏡で覗くような古き良き日本だとして、たかだか三、四十年を隔てるだけけの小津作品も、今では随分遠い世界になってしまったものだと思います。
映画の最初と最後近くに、学校の教師をしている香川京子が出かける場面がありました。
狭い見通しの中で、路上で遊んでいた二人の子供が、立ち上がって先生に挨拶をします。その何と言うこともない自然な身のこなしの中に、今は失われた何かを感じるのです。
言ってみれば、そのとき子供の頭には特に何の思いもないというような……。ただ安定した型があって、子供は思いを使わずにただ型に従って挨拶している。
それが何とも言えない安らぎを与えてくれるようなのです。
どこかで『文明退化の音がする』という本のタイトルを見たことがあります。もし文明という言葉を美しい“安定した型”という意味に取れば、今は随分、文明のない世の中になっているような気もします。
昔から伝わった“安定した型”を馬鹿にしきって捨ててはみたものの、それに代わる新しい型を一朝一夕に創り出すことができるはずもなく、その隙間をいたずらに混濁した思考と騒音で埋めるというのが今の世の中のやり方なのでしょうか。
しかし、あの古き良き日本の老人たち。
特にあの東山千栄子の(演ずる)あの柔らかさ、受容性。そしてその受容性の中に包まれている夫笠智衆の子供っぽさ。(あの最初の方の旅行鞄を詰める場面を憶えていますか?)
それにしても、原節子が演じた紀子という人の美しさはまた格別という気がします。
あのような人格と表現の中にその美しさはさしたる不自然さもなく、すっぽりと納まってしまうのですが、もし今の世の中、今の女の人に、あの美しさを容れるとしたら……どうしてもエキセントリックな不自然な人格と発声を発明しなければならなくなるような気がします。言ってみれば、あの森田監督の『それから』の誇張にならざるをえないというような。
東京から帰る途中、老夫婦が大阪の息子の所に立ち寄ることになりますが、あの下宿の場面は二人の“東京”物語の締めくくりでもあり、映画『東京物語』のクライマックスでもあります。
「そうですよ、わたしら幸せですらい」と言って、にっこり笑って髪に手をやった東山千栄子の美しさは絶品というものだろうと思いました。