『21世紀への指導原理 OSHO』

これから始まる時代


 これから始まろうとしているのは、取りあえず、私たちが従来依存してきたあらゆる社会的枠組みが虚構のものとして崩壊して行くプロセスだろう。
 ただ、私たちの一人ひとりが、本当にそれを自分で納得している時間的余裕があるのかどうかだが……。

 これまでの時代、私たちは所属というものを信じてきた。
 私たちは、家族に所属し、企業に所属し、国家に所属し、経済ブロックに所属してきた。私たちは何かに所属し、その所属している社会的枠組みの繁栄を通じて自分の安全と繁栄を図ってきたのだった。その意味では、私たちは自分が誰であるかの判断に迷う必要はなかった。私たちは自分が所属する集団の一員であり、その集団の繁栄はそのまま自分の安全につながった。
 私たちは、自分と家族の安全を図るために自分が所属する部署の繁栄を、会社の繁栄を、国家の安全と繁栄を望んだのだった。
 確かに、それは誤りというわけでもなかった。

 けれどもこれから私たちが通過する時代、私たちと私たちが所属する集団の関係はこれまでのようなものではありえないだろう。それは、恐ろしいほどに流動的であるかもしれない。
 新しい時代の本当の到来までに、私たちは一度、これまで自分が所属していると信じてきたあらゆる枠組みが解体し崩落してゆくような、信じられないような瞬間を通過して行くのかもしれない。
 あらゆる自己同一化の対象との剥離を体験するその瞬間は、自分から進んで招いた者にしか受け容れられないような痛みを伴うだろうか。私たちは、眼前に展開するこれまでの世界秩序の揺らぎと剥落を、恐らくはその崩壊を、静かに目を開いて観ていることができるだろうか。

 これまで、私たちは政治に対する強い不審の念を抱きながら、それでもなお心の内では政治家が私たちに代わって国家の、あるいは世界の秩序を維持してくれることを当然のこととして期待していた。
 けれども、本当に政治家たちに何時までもそれを期待することができるだろうか。
 政治家という人種は、けっして引き合うはずもなくなった損な役回りを、それでも必ず引き受けるてくれるほどの善人だろうか。
 ひょっとしたら、別の可能性も一度想像してみておくべきかもしれない。
 これから私たちが迎えようとしているのは、支配と非支配のエキスパートであった政治家が処理できる範囲を超えた事態かもしれない。政治家が投げ出してしまう可能性だってないとはいえない。
 そしてそれは、絶対的ともいえる確信を持ってプログラムを進める支配者と、ただただ翻弄される政治家たちとの二局分解のステージなのかもしれないのだから。

 そして最後には……、私たちの眼前に展開しようとしているのは、地球が従来の政治という、経済というゲームを脱皮してゆくための一部始終なのかもしれない。

 当分の間、私たちは過去の地球文明の何らかのアイデンティティに自分の根拠を求め、その根拠の許に固まって行くような段階を経なければならないだろう。
 私たちは宗教に、あるいは民族に回帰して行くかもしれない。
 私たち地球人類は、未曾有の異変の予感を前にして、自分の確かな根拠の許に身を寄せたいと願うだろう。
 だが、恐らくそれだけでこの大きな替わり目を通過することはできないだろう。
 私たちの前に待っているのは、あらゆる意味で私たちの予期を超えた大きな“何か”かもしれない。そう思った方がいい。
 そして恐らく、その切り替わりのドラマの主人公として、どうしても個々の私たち自身が芝居の舞台に引き出されるだろう。

 私たちはこれまで、何らかの集団に自分の身を隠すことができた。
 無論、これまでの社会でも、常に誰かは、独り密かに死の扉の前に立って自分が誰かの確認を迫られていた。
 けれども、それはいかにも例外的な特別の片隅で起こることで、それとは別の日常があるものと信じられていた。その日常は、さまざまの集団に対する帰属でその安全が保障され、その全体を政治家たちが面倒を見ていると。
 けれども、統治とは、統治される者の存在が支えているゲームだ。
 支配のゲームは支配される者によって成立する。今、私たちはそのゲームの最終段階に差し掛かっているのかもしれない。

 これから起こる大きな替わり目は、従来私たちが誰かに委ねていた自分の権能を自分の手に取り戻すためのドラマかもしれない。私たちは、けっしてこんなことを意識的に求めはしなかったが、私たちの無意識はそれを求めていたのだろう。
 だが、そのことが本当に起ころうとするとき、私たちは震えおののく。
 それでも、私たち自身も、本当はこの切り替わりを呼んでいたのではなかったか。
 私たちはこれ以上、自分が誰かを知らずにいることに我慢できなかったのだ。
 いったい、自分とは誰だったのだろう。これほど確かに知っていたはずの“自分”だったのに、私たちはこれまで誰を守ろうとしてきたのか。

 少し厄介だが、私たちの日常のリアリティから確認していきたい。