『21世紀への指導原理 OSHO』

リアルに存在している<自分>


 日常、さまざまの喜怒哀楽を経験するとき、私たちはそのさまざまの喜怒哀楽をリアルなものだと思っている。
 もちろん私たちにとってそれはリアルなものだ。それをリアルとしなければ考えることもできない。
 けれども、この「リアル」という言葉には実は二つの意味が混合している。
 ひとつは、ありありと私たちの前に(つまり、内面に)現前しているものという意味だ。つまり、私たちが日常生きているリアリティそのものだ。それを無視しては何も考えられないし、また何を考えても意味はない。
 リアリティのこの側面を、私たちは「現実」という言葉で表現している。

 ところが、この毎日の日常として私たちの前に現前している「現実」には、絶えざる変化という側面がある。つい昨日まで、途方もない富の膨張を確約してくれているように見えたバブルも、文字どおり一瞬の泡と消えてしまうというように。
 私たちはこのような種類の現実を、「幻」とか「夢」という言葉で表す。
 このように一瞬の内に消えてしまうものが“リアル”なものであるはずはないという反省から、“リアル”という言葉に、「幻」や「夢」の対立概念としての意味、「本当にあるもの」という意味が生まれた。
 すなわち、“リアル”のもうひとつの意味は、常にあるもの、不滅であるもの、有りて在るもの、という意味だ。
 私たちはリアリティのこの側面を「実在」という言葉で表している。
 私たちの日々の喜怒哀楽が、上の「現実」に対応していることは間違いない。だが、もし私たちの「現実」への対応が「実在」に対応していないのだったら、それは鏡に映った己の姿に吠えかかる恐怖に駆られた犬と何も変わらないともいえる。
 対応する現実がないのなら、それは不要な苦しみでしかないわけだから。

 私たちは毎日の生活の中で、自分の「現実」に対応して生きている。けれども一人ひとりの人間がそれぞれ別な「現実」に対応して生きているらしいことを、私たちは経験から知っている。
 一人ひとりの人間は、それぞれの現実の中で、それぞれの願いと欲望を持って、その現実に対応している。そして毎日の他の人との出会いを通じて、私たちの「現実」は幾分傷つけられ、また私たち自身も相手の「現実」を破壊する。そのことを通じて自分の「現実」が、どうやら相手の「現実」と同じものではないらしいと気づきながらも、私たちは自分にとってのリアルな「現実」に生きることを続けるしかない。
 つまり、私たちはそれぞれ別な「現実」に生きているということだろう。証券取引場で、今ある株を買おうとしている人と、その同じ株を売ろうとしている人が、同じ「現実」を生きているはずがない。
 言葉を換えて言えば、私たちは別な世界に生きているのだ。

 日常私たちが生活しているいわゆる現実が、このリアルという言葉の「現実」の側面に対応していることは確かだが、この現実が実際に存在している「実在」なのかとなると、それははなはだ疑わしい。
 けれども、私たちは普段そんなことは疑わず、自分の「現実」との対応に忙しい。
 私たちは同じ時空の中に存在していながら、その同じ時空がこの地上に五〇億の「現実」として存在しているのだとすれば、確かにそのような「現実」は本当の意味では存在していないのかもしれない。この同じ時空が五〇億の「現実」として現象しており、それが一瞬一瞬千変万化しているのだとすれば、それこそが「幻」とか「夢」とかいう言葉の定義そのものではないか。
 とはいっても、そのような「現実」が日常の生活の中で破綻しなければ、私たちはそれに対応していればいいともいえる。
 けれども、どうもこれから始まろうとしている時代は、その「夢」とも「幻」ともいえる「現実」が破れて、永遠なるものとしての「実在」が姿を表すための、この地球という星の大いなる変容の時であるらしいのだ。

 それはどういうことなのか。
 以下の確認のために、少し言葉を整理しておこう。
 私たちにとっての“物種”であるこの“自分”という「現実」を、以下、「個」という言葉で表すことにする。そしてあらゆる「個」を呑み込んで、なおかつ不動の現実として存在している「実在」を、「全体」という言葉で表してみることにしよう。

 すると「現実」と「実在」という二つのリアリティの側面は、物理次元の中では空間的に「個」と「全体」という二つの対極として表現されるようにも思われる。
 そして、その同じ二つの側面は、時間の中では、「今」と「永遠」という形の二つの極に分かれるようにも思われる。