『21世紀への指導原理 OSHO』

「個」の原理、「全体」の原理


 例えば、私たちは生きたいし、生きなければならない。
 私たちは満足したいし、満足しなければならない。自分を実現したいし、実現しなければならない。
 これは間違いなく、「個」の原理だろう。
 この現に存在する「個」としての私たちの「現実」の、その深い必要と憧れを掬い取ることができないような原理は、原理の名にも値しないだろう。
 一方、地球を取りまく環境が現在危機的な様相を帯びてきていると言うとき、それが地球環境というひとつの「全体」、他の何処へも帳尻を持って行けない“不動の”「実在」からの解答であることも確かだ。
 この“他の何処へも帳尻を持って行くことができない”ということが、「全体」という「実在」の原理だろう。
「全体」は他の何処へも“付け”を回すことはできないはずだ。それが唯一の「実在」なのだから。

 だから、「全体」は揺らぐことがない。泣き言をいうこともなく、動揺することもない。まったくのところ、最後の帳尻はいずれにせよ自分が取ると分かっていて、右往左往することなどあるはずもない。すべては自分の中で起こっている。自分だけが唯一の「実在」なのだから。
 比喩的にいうなら、「全体」は夢を見ないといえる。
「全体」の原理とは、それが人間の解釈によっては--希望的観測によっても、悲観的観測によっても、無視によっても--動かない実在だということだ。

 つまり、

「個」とは、私たちが現に生きている、私たちそのものである内面のリアリティ、
「全体」とは、無視しようにもけっして無視しえない、唯一不動のリアリティだ。
 この二つのリアリティに共通するのは、共に無視できないということだ。

 OSHOなる原理をこの上なくユニークなものとしているのは、このまったく位相の異なる二つの実在の対極をそっくりそのまま掬い上げる、その驚くべき包括性にあるといえる。
 OSHOとは、「全体」と「個」という絶対的に矛盾するかに見える二つの存在原理を、そのままいささかも妥協することなく共存させ融合させる灼熱の融解点とも言える。
 OSHOの永遠性は、この「全体」と「個」という二つの実在の間に、大胆不敵かつ真摯な、そして永遠の知恵でもあった太古の錬金術的均衡点を再び発見し、どんな暗闇をもってしても二度と再びそれを押し隠すことができないほどに開口させてしまったことだろう。
 だいぶ大げさな言葉が続いてしまった。
 ただ「全体」を包含しないいかなる原理も虚偽であること、また、「個」が妥協を強いられる原理など存在するにも値しないことを、もう一度確認しておきたかった。

誰かが「全体」を代行した過去
 きわめてエキセントリックないい方を許していただきたい。
 OSHOなる原理が、地球人類の歴史を二分する目印となることだろう。
 なぜそう言えるか。
 それは、OSHOが「個」と「全体」という実在の両端に位置する二極間の通路を、この地球で再び閉じることができないほどに大きく開け放してしまったからだ。
 地球のこれからの歴史が、いったん大きく開いてしまったこの通路を無視し続けることはできない。たとえその認知に若干の時間はかかるとしても。
 OSHOなる原理はいう。
 私たち一人ひとりの現実である「個」から不生不滅の「全体」、私たちの「今」から「永遠」への通路は、私たち自身の取り外しのきかない本性として私たち自身の「個」の中に埋め込まれている、と。いや、そう言っても正確ではない。
 私たちの「今」こそが、「永遠」そのものなのだ、と。

 そんな坊主の説教のようなものを聞くつもりはなかった、と言われるかもしれない。
 だが、時代は急速に変わっている。
 これまで単なる言葉であったものが、実は私たちが生きる日常そのものになる時代がそこまできているのだ。
 それだけではない。そのことに気がつかない限り、越えられない“大峠”が近づいているかもしれないのだ。それは、そのことを私たち「個」に気がつかせるための“大峠”が近づいているといっても同じことだ。
 その峠はリアルな実在を受け入れた「個」にしか越えられないかもしれない……。

 OSHOの徹底性は、この「個」から「全体」への通路を何度となく往還し、その通路の要所要所に外科医の無影光を当て、隘路【あいろ】を切開して広げ、広げたところを二度と再び塞がることのないように言葉の糸で止め、この通路を地球上のあらゆる「個」にとっての共通の財産としてしまったことだ。
 このOSHOの出現によって、地球上でこれまで「宗教」とか「政治」とか呼ばれてきたものの存在根拠は永久に消失してしまった。

 地球のこれまでの歴史では、個々人の意志と全体との調節を司る機能を、宗教とか、(少し位相は違うが)政治とか呼ばれる機構が分担してきた。
 宗教上の「全体」は、現実には聖職者が代表した。
 彼らが「全体=神」の意志を私たち個々人に伝えるという形で、私たち「個」と「全体」の通路の役を引き受けた。
 また地上の権力を司る政治という機構の中では、個々の政治家が人間全体の集まりである社会を代表し、私たち個々人の間の調整を図ってきた。
 けれども実際上は、いわゆる“神”の意志は、具体的には個々人である聖職者の意志によって置き換えられ、“社会”の意志、“国民”の意志は、実際は個々の政治家の意志によって置き換えられるしかなかった。

 私たちそのものであるリアルな「個」は確かに存在し、また不動の「全体」も確かに存在したが、その中間のさまざまな“存在物”、すなわち家族、企業、宗派、国家、民族といった抽象的な枠組みは、私たちの頭の中にしか存在していなかったのだ。
 国家という実在の主体は存在しない。民族という主体は存在しない。宗派という主体は存在しない。
 おしなべて、集団というものは、実体としては存在しない。
 それらを代表するものは、結局は単数または複数の個人であり、最終的にリアルな<主体>は常に「個」の中の<主体>でしかなかった。
 私たちの過去の歴史は、さまざまの抽象的な枠組みの“主体”が「個」と「全体」を仲介する形で成り立ってきた。けれどもそれらは、結局は実在の世界に存在しない虚構の“主体”でしかなかった。

 歴史上、「全体」を表すという虚構の“主体”と実在する「個」の間で葛藤が生じると、結局、常に「個」が“全体”の前にひれ伏す形で収拾される以外なかった。
 その意味では、私たちの歴史は、虚構の“主体”がリアルな<主体>を服従させてきた歴史だともいっていい。
 過去のあらゆる有形無形の原理は、密かにかあからさまにかはともかく、何らかの意味で「全体」が「個」を呑み込む形の原理として存在してきたといえる。
「個」は、不可視の「全体」の前で膝を屈した。
 あえて「全体」を見通そうとする「個」はなく、たとえあっても、「個」であることを護るつつましい“判断停止が”、「全体」の祭壇の前に自らを屈する可愛らしい「個」の姿を晒すことになった。

 その過去はすべて失敗した。とすれば、残るはもうひとつの選択肢しかない。
 すなはち、「個」が「全体」を呑み込むという共存、融合のあり方だ。