『21世紀への指導原理 OSHO』

「個」とは何か


 遡れる限りの過去から、私たちという実在の「個」は、常に「全体」に呑み込まれる形で存在してきた。
「個」は、不可視の「全体」を前にしていかにも弱く、自分の必要と希望を振りかざすだけでは「全体」を統御しえないことを経験した。
 自分の希望が“理不尽”な「全体」によって踏みにじられたとき、私たち「個」は納得できぬながらも卑屈に引き下がらなければならなかった。そのたびに不安と不満に苛立ち、何時か「全体」の思いを察知しようと小さな頭を巡らした。

 結局、私たちは、“幸運”や“不運”のごく表面的な因果関係を見て、それを自分に引き寄せて解釈するしかなかった。そうして見ている限り、その表面的な因果関係の中でできるだけ賢く立ち回るより他にうまい手だてはなさそうだった。
 結局、私たち「個」は、時として“理不尽”な「全体」の意志が通るのをやり過ごし、それを宥【なだ】め、目こぼしを願い、時には裏をかいてでも「全体」から利益を引き出そうとするしかなかった。
 けれどもその時、「全体」の中から、「全体」に支えられて立ち上がってきた私たち「個」は、自分が何者なのか、なぜ自分が自分なのかに気づいていなかった。
 なぜならその時、うまく立ち回り幸運にありつこうとするせせこましい“判断停止”のために、自分がなぜ幸運に遭い不運に遭うことができるのかを、あえて見通そうとはしなかったからだ。
 私たち「個」の不幸を決定していたのは、私たちが出会う「全体」が本当の「全体」ではなく、目上の者とか、部族、企業、宗派、国家といった虚構の“全体”の代理人でしかなかったことだ。私たちは、この虚構の代理人に呑み込まれていたのだ。

 私たち「個」は、いつか自分の肉体が自分であることを疑わなくなっていった。
 肉体が自分なら、確かに肉体の維持は何よりも肝心なことのはずだった。
 だが、本当にそうだろうか。
 私たちが“自分”であるのは、肉体が動くからではない。
 私たちが“自分”であるのは、私たちが“自分”を“自分”と思うからに他ならなかった。
“自分”が“自分”である根拠は、“自分”というその<意識>だった。その発見の感動を、デカルトは「我思う、故に我あり」と表現したはずだ。
「個」が「個」である根拠は、“自分”という<意識>だった。
 この“自分”という<意識>こそが、私たちの持てるすべての“物種”だった。この<意識>を、私たちは誰に保証してもらう必要もなかったのだ。

 私たちは間違いなく、“自分”の身の上を心配している。
 私たちは間違いなく、“自分”を実現したい。“自分”の欲望を持っている。そのような<意識>であることを誰にも保証してもらう必要はない。その“自分”が「夢」だということは、ありえないことではない。けれどもたとえそうであっても、その「夢」の<存在>を誰に保証してもらう必要もなかった。
“自分”が<在る>ことは、誰に保証してもらう必要もない自明性でしかなかった。
 つまり、「全体」から自分を切り離し、自分の運命を「全体」の命運とは別のものとして見、わが身を心配するその“自分”という<意識>にしか、「個」であることの保証はなかったのだ。
 すべての“物種”である<意識>が、「全体」から切り離された「個」という“自分”に焦点を合わせ、釘付けになって、卑屈に、後ろめたさを持って、心配していただけだった。
「個」とは、本来「全体」でしかありえない<意識>の、「全体」に還るまでの“種子”の姿だった。