『21世紀への指導原理 OSHO』

「個」は判断停止で何を得るか


 私たち「個」が<意識>の担い手であることは災厄ではない。
 ただ、自分が<意識>の担い手であることを受け入れようとせず、「全体」の無意識の部分であるかのように振るまおうとすれば、私たちの災厄は運命づけられる。
 そういう意味での災厄について考えてみたい。

 厄介なのはそのような災厄は偶発的なものではなく、<意識>の担い手に委託されている自由そのものに内在しているということだ。
 つまり、自分から災厄を呼ぶような選択もまた、「個」の自由の一部として保証されているということだ。だから、<意識>である私たち「個」が、「全体」の無意識な部分であるかのように振る舞おうとすると、私たちは「全体」の“理不尽”な意志に晒されることになる。
 見晴らしの無い世界の中で私たち「個」はいたずらに卑屈になり、無用な辱めを受け、不毛な屈従を強いられる。
 そして私たちには、なぜ“自分”がそのような運命を甘受しなければならないのかが理解できない。
 なぜならその時、私たち「個」は意識である自分の権能を十全には使っておらず、その能力をただただ散乱させ、自ら惑乱し混濁して、成りゆきを心配することにしかその力を振り向けていないからだ。
 心配のあまり私たち「個」は気を失う。そして見ないことにする。まるで自分が対象を見さえしなければ、対象そのものが消えでもするかのように。まるで、糊塗することで、抑圧することで、そのことを無かったことにできるかのように。
 そしていたずらに妥協し、譲歩し、判断を停止する。そして苦悶する。

<こんなことまで我慢して、人は生きなければならないのか?>
と、
<こんなことも我慢できずに、人は死んで行くのか?>
の狭間を。

<意識>はもともとそれ自体が「全体」であり、どんな大きな物でも映し出すことができたが、自分の<意識>の焦点を何処に合わせるかは、「個」の尊厳として私たちの選択に委ねられていた。
 不幸は、私たち「個」の自由の証でもあった。
 ただ、私たちは必ずしも不幸である必要はなかったのだ。
 それがどんなゲームであるのか、それにいわゆる意味などあるのか無いのかはひとまず措いておこう。ただひとつ確実にいえることは、

「個」が「全体」に呑み込まれた時、そこにあるのが惨めさと不幸であり、
「個」が「全体」を呑み込んだとき、そこにあるのが至福だということだ。

 もちろん、私たち「個」が部分であろうとする限り、その部分が「全体」を呑み込むことなどできない。自明なことだ。
 明かなことは、私たち「個」が「全体」の中で上手く立ち回り、そうすることで「全体」から自分の利益を引き出そうとしている限り、広い意味での私たちの不幸と不満は運命づけられているということだ。
 そのような利己的な行為が勧善懲悪的な結果を呼ぶというのではなく、そのように振る舞うことを選択する私たち「個」の<意識>が、幸福と不幸を、つまりは深く秘められた空しさをしか映すことができないということだろう。
 なぜならそれは、<意識>の本来の姿、<タオ>に違背しているからだ。
 元来健やかな五体を持って大地を駆けめぐるべき者が両足を縛って走ろうとすれば、彼の惨めさは運命づけられているだろう。
 思うさまに自らの場所を表現できなかった空しさと、悔しさと、不満が、死に臨んで恐怖となって逆流する。
 こんな惨めな片隅で、こんな“ケチ臭い”部分として、死んで行くのは嫌だ、と。

私たちは「実在」に対応できるか
「自我」が「神」の座を奪った後の西洋近代の歴史はすべて、その「自我」の延命を図るためのさまざまのアイデンティティ確立の歴史だったともいえる。
 何か姿あるものに「自分」を結び付けることで、「自分」の存在を意味づけ、流動する生の現実の中に「自分」の存在の根拠を築こうとしたのだろう。自分が生きた証しを自分が実現したことの中に求め、それが人々の記憶に留まることの中で生き延びようとしたのだろう。その中で、私たちの<生>は「在ること」から「成ること」になり、人生は苦闘そのものになっていった……。
 OSHOは、そのような苦闘は私たちが、自分が誰かを知らないことからくるという。そして、そのような苦闘はまったく不毛であり、かつ不必要なものだと。

 その理由を、OSHOはこう説明する。
 私たちは何れにせよ永遠に存在する意識なのだから、生き延びようとする苦闘自体まったく必要のないものであり、また永遠の変化をけっして止めることができない以上、形ある物の永続性を願うそのような苦闘が実ることはありえないからだ、と。
 そのような苦闘自体、肉体の保存という元々不可能な“夢”を元型にして出現した、恐怖に由来する狂気の夢の結果であり、そのような夢は、恐怖の拡大再生産を結果することはあっても、現実の実りをもたらすことはありえない、と。
 OSHOの教えるところはまことに端的だ。
 OSHOが教えるこのような言葉を、私たちは聞いたことがなかったわけではない。
 ただ、言葉としては知っていても、自分が日常生きている現実とは一八〇度逆であるため、私たちにはその意味が伝わらない。そのリアリティを実感できない。
 私たちは、自分の“死”を目前にしか、それを理解する必要に迫られない。

 もうひとつ、この原理を理解し難くしている障害物がある。
 その障害の大きさは個々人で異なる。
 それは、この原理が伝えるリアリティの理解し難さは、従来の苦闘で自分が得た“獲得物”の大きさに正比例するかもしれないということだ。過去の苦闘によって得た(と思われる)ものが大きければ大きいほど、OSHOが意味するこの単純素朴な真理を理解することは難しい。
 従来の世界での持ち物が多ければ多いほど、それがまったく無意味な努力だったなどということを理解したいとは思わないはずだ。
 いわゆる「既得権益」と呼ばれる障害物による理解し難さだ。かくて、私たちは自分が持っている唯一の“物種”である「今」を、“未来”という夢のために捧げ続けることになる。それこそが“過去”を生きるということなのだが……。
 結局のところ、OSHOの教えることを真実と認識するかどうかは、従来の苦闘によって手に入れるものを私たちが“リアル”と思うかどうかによることになる。

 ここで、リアルという言葉の二つの意味の、どちらに私たちが比重を置くかが決定的な意味を持つ。
 けれども実は、それが夢であろうが何であろうが、その時々の自分にリアルな「現実」に対応していて何も問題がなければそれで充分だともいえる。だがもし今が地球にとってきわめて特別な時で、「実在」が私たちの日常の「現実」にも突出し始め、その夢を打ち破り始める時代なのだとしたらどうだろうか。過去の基準などまったく役に立たないことになるだろう。

 地球の現在の状況はまことに異常といえる。
 どう考えても、ただ事ではない。
 けれども、私たちはただ事だけを考えたい。だがひとつ確かなことは、私たちのこれまでの生き方の集大成が現在地球を覆っているこの惨状だということだ。そしてそう言っている今も、地球という筏はナイヤガラの滝壷を目指してまっしぐらに突き進んでいる。
 私たちが日々の苦闘によって対応している「現実」は確かに“幻”だったが、窒息しつつある地球だけは「実在」の世界のリアルなできごとだったという可能性もないとはいえない……。

 現にこの肉体に閉じ込められている個々の私たちに、不動の実在である「全体」に対応する生き方など可能だろうか。
 けれども翻って考えてみれば、自分以外の誰に、実在の「全体」に対応して生きることなど期待できるだろう。まるでそれでは、実在の「全体」に応じて生きる“専門家”でもいるみたいではないか。
 それとも、やっぱりあの政治家たち、地上に五万発の核兵器を準備した現在の体制の指導者であるあの政治家たちに、この惑星の命運を任せておくべきなのだろうか。