『21世紀への指導原理 OSHO』
「全体」への通路は「個」の中にある
ここで私たちはもう一度、地球が生命の星であることをやめる瞬間、誰がパニックに陥るのかを思い出さなければならない。そして、そこでパニックに陥る者こそ、私たちの「全体」である地球に対応する能力を分け持つ者であることを。
だが、私たちはどうやって「全体」という「実在」に対応できるというのか。そこで、OSHOが教えていることが、何かあるだろうか。
OSHOは、私たち一人ひとりの「個」の中にその通路があると言う。
「その道は内側にある」と。
内側とは何か。
内側とは、静けさのことをいう。
その静けさは、寛【くつ】ろぎの中にある。
この世の大騒音は、「実在」のごく表面を覆っているに過ぎない。
そしてこの表面は、実に千変万化して止まない。けれども、この変化して止まない表面の下に、実はその変化全体を浮かばせている不動なるものがあるという。そして、この不動なるものなくしては、実は変化そのものがありえないのだと。
ちょうど、海がなくては波がありえないように。
巨大な船を木の葉のようにもてあそぶ暴風雨の逆巻く波の下に、それを遠い表面の世界として眺めながらも、微動だにしない安らかな深海の世界があるように、いたずらに焦り、近視眼的な対処療法に暇もない喧噪の世界の下にも、すべての変化を浮かべて微動もしない沈黙の世界がある。
OSHOは、この内なる沈黙の世界こそが、変幻きわまりない喧噪の「現実」世界を支える「実在」の世界だという。それこそが、すべての物質世界をその表面に浮かべる<意識>の海なのだと。
この<意識>の海は私たち「個」の中にあり、それは常に実在の「全体」に向き合っている。私たちは、「全体」に対応するために政治家も神の代理人も必要としていない。ただ、私たち自身が、その自分本来の生得の権利を主張すればいいだけだ、と。
けれども現実には、私たちはあまりにも永くその通路を使わずに来た。
そこに通路があることすら忘れてしまっていた。そんな通路のことはともかく、現実の具体的な日常の心配をすべきではないのか……。
私たちは、絶えず「現実」に合わせて駆け出そうとする。まるで、“速さ”こそがすべてを解決するというように。
しかしその道こそ、これまで私たちが辿ってきた道だった。
私たちの“部分最適化系”の合理的な判断の枠内でどんなに効率を求めても、どうにもならないことがあるのを、どうやったら私たちは理解できるだろうか。
現在始まっているプロセスは、“部分最適化系”が“有機系”に明け渡して行くプロセスそのものであるというのに。いや、私たちが対応しているその“部分最適化系”そのものが、実は「実在」の世界には存在しない虚構の“幻”であることが明らかになって行くドラマの幕開けだというのに……。
現在の地球の危機こそ本物だ。
今まさに、「全体」がひとつの答を出そうとしている。
「お前たちのうちの誰が、本当に自ら<意識>であることを証すだろうか」と。
秘められてきた太古の扉は開かれるだろうか。
私たちがあくまでも“部分最適化系”の言語しか理解しようとしないなら、「全体」が解答を出したときその解答は“部分最適化系”の言語にならざるをえないだろう。
このことは、数学的に確実だ。
「全体」は、それ以外の解答を出しようがない。それ以外の解答は解答として認知されないのだから。そのことで「全体」を責めるわけにはいかない。
OSHOは、罪など存在しないという。
あるのは、無意識だけだ、と。
自分が<意識>であることを受け入れることほど難しいことはない、とOSHOはいう。
では、どうすればいいのかともし本気で問うなら、OSHOはこう教える。
掴んではいけない、と。
「どんな幻想も、どんな希望も交えずに、ただ可能な限りの意識をもって、在るがままの事実を“見ていなさい”」
「あなたはそれではない。あなたはそれに立ち会っている意識だ」と。
けれども、あまり先を急ぐのはよそう。
私たちはまず、ここで“部分最適化系”と呼ばれているある種の虚構の世界がどのように実現され、引き継がれ、また日常の現実の中でどう機能しているのかを、見て行くことにしよう。