『21世紀への指導原理 OSHO』

不幸であることの根拠


 人間の不幸とは、実はソフトウェアの問題に過ぎない。
 一言でいうなら、これが二十一世紀を導く原理OSHOの宣言だ。

 あらゆる人間の不幸は、その人間が自分の本来の姿、自らに内在する<道【タオ】>から外れていることによって発生する。
 では何故、自分の本来の姿から外れるというようなことが起こりうるのか。
 何故なら、それこそが意識を担うという栄光と分かち難い状況だからに他ならない。
 意識を担うその“何か”は、意識を担っていることを自ら知っていなくてはならないだろう。では、どうやって自分が意識を担っていることを知るのか……。恐らくここに、宇宙最大のジョーク、パラドックスのパラドックスがあるのかもしれない。

 取りあえず、意識を担うためには、少なくとも、その担い手は間違うことができる能力、間違えうる自由を持っていなければならないだろう。
 未知の状況において判断し過ちを犯しうる能力は、意識を担うための充分条件ではなくても、必要条件ではあるはずだ。
 絶対に間違う可能性を持たぬ者に、意識を担うことはできないはずだから。
 たとえどれほど複雑な状況に対応し、どれほど膨大な選択肢の中から決定を下していたとしても、プログラムされている意志決定システムから逸脱する可能性のないコンピュータに、意識の担い手になることなどできるはずもない。
 動物には動物の意識しかない。行動の選択パターンはほとんど本能で決定されており、そこから逸脱する可能性は極めて小さい。

 けれども、私たち人間は人間であることを選んでいる。
 選ばされている、といってもいい。他の動物とは一線を画して、もう少し大きな意識の担い手となる道を歩んでいる。
 その私たち人間は、常に間違う可能性を持っている。
 ということは、間違うということは、私たち人間の<タオ>の一部だとも言える。
 私たち人間は一瞬一瞬、自分が何者であるかを思い出さなければならない。なぜなら、私たちは、一瞬一瞬自分が何者であるかを定義しつつある存在なのだから。
 これが人間の不幸の、惨めさの存在根拠だ。
 けれども、間違う可能性があるということは人間の<タオ>の一部であるとして、では人間は必ず不幸でなければならないのだろうか。
 そうではない、とOSHOはいう。
 ここでOSHOの言うことは少し難しい。
 OSHOは、私たちが不幸であるとき、私たちは必ずしも自分がその不幸になる必要はない、と言う。いや、もっと正確には、私たちはけっしてその不幸ではない、と言う。私たちはけっしてその不幸ではない。
 では、私たちは不幸なときにも幸福なのか。
 そうではない。私たちは幸福でもない。
 OSHOは、私たちはその不幸に、その幸福に立ち会っている<立会人>だ、と言う。その不幸あるいは幸福、失敗あるいは成功に立ち会っている<主体>、すなわち<意識>が私たちだ、と。
 だが私たちは、その<意識>の空に浮かぶ気分を、思いを、感情を、そのあれやこれやの“雲”を自分だと思う。その自己同化にこそすべての問題の種はある、と。