『21世紀への指導原理 OSHO』

エゴ、私たちの不幸の集積


 私たちの内面の空には、一瞬一瞬、新たな“思い”が浮かぶ。
 それは確かに自然発生的ともいえる。けれども、同じような状況を前にしても、私たちの中に同じ“思い”が発生するのでないことは誰もが知っている。私たち個々人の中に、それをどのような“思い”として発生させるかを決めている仕組みがあるわけだ。
 外側の状況を解釈して個々の“思い”を生成するその体系、入力を出力に変換する<ソフト>、その“関所”のような構造体を私たちは「自我【エゴ】」と呼んでいる。
 そして一瞬一瞬の“思い”とその<ソフト>を総称して、私たちは「心【マインド】」と呼んでいるのだろう。
 そしてもちろん、このエゴが私たちが認知したいわば公認の自分であり、私たちはそのエゴを取りあえずの“橇【そり】”にして「全体」への旅に出なければならない。それ以外に方法はない。私たちにとってはこの“橇”は考えられる限りの賢い旅のスタイルだ。その意味では、私たち個々のエゴにとっては自分が一番賢いのだとも言える。

 ところが厄介なことに、この公認の自分はまさに惨めさの集積に他ならない、とOSHOは言う。なぜか。
 私たちは幸福を願う。少なくとも、幸福を願っていると思う。
 ところが、実は幸福を願うはずの自分は、最も不幸の予測に長【た】けた自分でなければならない、と私たちは思う。私たちは不幸を回避することによって、幸福になろうとする。そして私たちはありとあらゆる不幸の種を予測し、その不幸に<意識>の焦点を合わせ、なおかつそれを排除して幸福になることを願う。
 かくして私たちは、もっぱらありうる限りの不幸の可能性を集積して自分の“橇”を作ることになる。
 ところがどうも、宇宙はそのような無用に複雑な私たちの戦略に対応しきれないらしい。宇宙は単純に、ただ私たちの<意識>の焦点にターゲットを絞り、それを実現しようとする。結局、私たち自身がただ不幸が好きであるために、その好きな不幸を引き寄せるということになるらしいのだ。

 しかも、OSHOの教えるところでは、どうもそれは単なる偶然ではないらしい。
 OSHOは言う。
 生命世界に何の根拠も持たない「エゴ」は、不幸とか、恐怖とかいった虚構の概念を梃子にすることによってしか実は存在できないのだ、と。
「エゴ」は確かに無生命のものだが、私たちという現実の生命に寄生することによって存在している。そして「エゴ」は<意識>の空の中に浮かぶことによって仮幻の存在を獲得し、けっしてそれを手放したくはないと思っている。
 そのための戦略として「エゴ」は、自分が面倒をみなければ、生かされている生命体の私たちだけではやって行けないと思わせる道を選んだ。かくて、「エゴ」は自分の存在の必要性を、絶えず私たちに声高に証明し続けなければならないのだ、と。

 けれども、現実に「エゴ」を自分だと思っている以上、私たちが「エゴ」を通じて成長して行かなければならないことも確かだ。
 その「エゴ」としての私たちが、「エゴ」を振り切ることなどできるものだろうか。

 そこでOSHOが言うことは面白い。
 いや、あなたは「エゴ」ではない、あなたはマインドではないからだ。ただあなたはマインドに自己同化しているだけだ。その自己同化は外すことができる。そのためにあなたがしなければならないのは、「エゴ」にエネルギーを送らないことだけだ、と。
 では、そのためにはどうすればいいのか……。
 自分のまわりに起こっていることを受け容れなさい。今あなたのまわりに起こっていることは、すべてあなた自身が呼び寄せたことだ。今あなたが生きている世界は、あなたの成功の結果として現れている。その状況がひとりでに変わることはない。呼び寄せるあなたが変わらなければならない。
 それには、その状況に応接し、それを裁こうとしているマインドの振る舞いを観ていなさい。そのマインドはあなたではない。あなたの所にきている客だ。客と葛藤しないこと。好きだの嫌いだのを言ってはならない。それはそのマインドにエネルギーをやることだ。「エゴ」はそのエネルギーを食糧にして生き延びている。「エゴ」自体には何の力もない。「エゴ」の力はすべて、あなたから奪ったものだ。
 その“観ている”あなたは、マインドではない。マインドには“観ている”ことはできない。マインドには“判断”すること、“決めつける”ことしかできない。どんな“判定”も下さずに、ただ“観ている”ことはできない、と。

 実は、私たちの不幸は私たちが立ち会っている状況そのものによるよりは、むしろ私たちがその状況に与える意味と、その状況に対する自己同化と、自己同化したその状況を受け入れらないということによるものなのだ、とOSHOは言う。

 けれども、先を急ぐことはない。
 私たちの不幸には、もっともっとあからさまで粗大な、不要な不幸がある。
 私たちがあまりにも明瞭に<ソフト>の選択を誤っていることからくる不幸だ。