『21世紀への指導原理 OSHO』

<タオ>と<ソフト>


 概略、OSHOの言うところはこうだ。

 これまでの人類は、自分の行動を律する<ソフト=内部規範>とその人間が本来開花させるべき<タオ=内在的本質>の間に葛藤が起こったとき、内在的本質の方を内部規範の方に合わせる形でその葛藤を収拾しようとして来た。
 現在人類がこのような収拾がつかないほどの混乱状態に陥ったのはそのためだ。
 なぜなら、本来<ソフト>はいくらでも変更可能なものだが、<タオ>とは変更できないその人間の本質そのものだからだ、と。

 人間の内部規範とは、人間が本来の自分を思い出して行く過程、無限の<意識>である自分に覚醒して行く過程で、その時々にそれまでの思考をとりあえずまとめた行動指針に過ぎない。
 その<ソフト>は、それが形成されたその場その場ではあくまでも意識的に選ばれたものだろう。けれども、人間の意識の中で膨大に蓄積されたとき(必ずしも無意識の中に抑圧されるのではないにしても)、それは形成されたときのその根拠とはまったく無関係に、ほとんど意識されることなく、人間の行動を背後から支配するものとなる。

 一方、内在的本質<タオ>とは、まさに実現されるべき当体そのもののことだ。
 いや、実現されようがされまいがそんなことにはお構いなく、既にあるがままのものとして存在している実在のことだ。
<タオ>が<タオ>であることに、理由もなければ、意味もない。
 そう言ってしまうのが舌足らずなら、<タオ>は私たち人間の理由づけも意味づけも必要とせずにただある、と言おう。

「薔薇は薔薇は薔薇」
「木の葉は緑だから緑なのだ」

 私たち人間が与える理由も意味も超えたものとしてそれはあり、私たち人間はただその神秘を生きることができるだけだ。
 過去の人類がその時々の<ソフト>に合わせて、<タオ>の方に注文を出してきたとは信じられないことだが、それが過去の人類史の現実であり、現在の実状でもある。
 なぜそう言えるか。
 なぜなら、そうでなくて人間がこれほど惨めでいることはありえないからだ。
 あらゆる人間の不幸は、その人間が自分の本来の姿、自らに内在する<道【タオ】>から外れていることによって発生するのだから。
 人間は、奇跡を行っている。このように現前する大歓喜の世界に目を塞ぎ、ただひたすら無用にして不毛な努力を続け、その結果として現象する不幸だけを見続けていられるのは奇跡だ、とOSHOは言う。