『21世紀への指導原理 OSHO』

過去を向くマインド


 では、何故<タオ>と<ソフト>の間にずれが起きるのだろう。
 それは私たち人間のマインド(心、思考)のあり方そのものにその根拠がある、とOSHOは言う。
 私たちのマインド(頭脳、思考、論理)は、もともと情報の蓄積、検索、推論を本分とするひとつの道具、機械にすぎない。実在の世界に存在する最も洗練された精妙な機械だが、実在そのものを映し出すことはできない。

 例えばここに、未知なる無限の宇宙空間に向かって冒険の旅に出ている宇宙船があるとしよう。
 宇宙船の艦長は、前面の大スクリーンに展開する光景とコックピットの計器類を眺めて、宇宙船の各部所に対して指令を出している。
 けれども、旅の行程に発生するあらゆる細部に対して、艦長自身が判断を下すことは事実上不可能だ。宇宙船の航行、操縦の各場面での判断の大部分は、備え付けのコンピュータが代行する。その時このコンピュータの判断が、それまでにコンピュータの中に仕込まれている膨大なデータとそれを扱う処理の論理から出ていることは明らかだ。
 艦長は時々刻々と変化する状況に対してコンピュータが出してくる判断をいちいち疑いはしないし、またこのコンピュータの助けなしには安全に航行を続けられないことも確かだ。状況に対応する判断を示すことができる限り、コンピュータの判断は常に正しいとも言える。

 けれども、過去のデータの検索とそこからの推論によってはどんな判断も下しえないような、まったく新しい状況が発生した場合はどうだろうか。
 その時コンピュータは「未知」の二文字を示して、判断を停止するに違いない。
 ここまでが、私たちのマインドに起きることだろう。
 ではその時、この宇宙船の艦長はどうするだろうか。
 あるいはパニックを起こすかもしれないし、あるいは冷静に、誤謬の可能性はあっても妥当な選択肢のひとつを選択するかもしれない。いずれにせよ、新しく起こった事態に対して艦長の意識は全面的に対応しているはずだ。
 そしてもちろん艦長は、宇宙船の航行を制御しているかに見えたコンピュータが実は図書館の司書のようなものに過ぎず、この冒険行の全体に対応しているのは自分自身と各部所に配置されている各部員であるという当たり前の事実を知っているだろう。
 いずれにせよ、コンピュータは初めから冒険などしていなかった。

 マインドとはデータの蓄積とその検索、推論の代行者にすぎない。
 それは常に過去のデータに向かっており、実在の世界に向かってはいない。
 またマインドには何も起こらない。それは膨大な記憶と、その検索、推論のための一大メカニズムではあっても、<生>の内実である「体験」そのものの起きる場、<意識>ではないからだ。
 喜びも、痛みも、苦しみも、およそ<生>の内実である「体験」は、すべて<意識>の中で起きる。
 ではマインドは<生>の内実である「体験」には何の関係もないのだろうか。
 いや、大いに関係がある。なぜならマインドは、膨大な(いや、実はそれほど膨大でもないのだが)過去のデータとその処理の論理を、判断の体系を、一言でいうなら<ソフト>を支配しているからだ。

 そしてこの判断体系がすべて過去の方を向いていることは、マインドの罪ではない。それはマインドという機構の本性であるにすぎない。
 ただ誤りは、このいわば図書室の司書に過ぎないものに、宇宙船の航行操縦の全指揮権を委ねた時に起きる。それでは、宇宙船は常に新しい状況に突入するのに、指揮者は懸命に図書室の中を走り回っているということになってしまうだろう。
 例えば、ぐっすりと眠りこけた艦長の前の大スクリーンに繰り広げられている光景は、この艦長が一目見ればすべての意味を思い出せるような、あるパターンを表しているかもしれない。けれども、司書が管理する図書室の中にはその記録はない。司書はいたずらに非常警報を出し、各部所に対して攻撃を指令するだろう。
 その結果、主をなくした宇宙船はいたずらに苦渋に満ちた旅を続けるかもしれない。

「マインドは召使いとしては素晴らしい。だが主人にすべき者ではない」
 これがOSHOの基本的メッセージだ。