『21世紀への指導原理 OSHO』

“条件付け”:<ソフト>のバトンタッチ


 では、もともとは過去の情報の検索機構でしかない蓄積された記憶が、どうして無意識のうちに人間の行動を拘束する内部規範にまで成長するのだろう。
 ここに現れるのが、“条件付け”と呼ばれるトリックだ。

 ハードウェアとしての人間の肉体は、母親の胎内における九ヶ月の滞在期間に、非常な速度でそこに至るまでの過去の生物学的進化の歴史をすべてたどるといわれる。
 かくてこの世に誕生したハードウェアとしての肉体は、その人間に戦国時代の武将を選ぶことも、二十世紀末の多国籍企業のエリート・ビジネスマンを選ぶことも、あるいは二十一世紀人を選ぶことさえ可能にする完全な潜在能力を保証している。
 けれども実際に一人ひとりの人間がどのような人生を選び、どのような役割を演ずるかは、そのハードウェアが保証する広大な選択肢の中で自由に決定されるわけではなく、彼が生まれた環境によって大きく制約を受けると言わなければならない。
 そこに、彼の生きている時代と環境、誕生してから成年に至るまでの間に彼が身につける<ソフト>の問題がある。

 肉体的誕生の後に、私たち個々の人間が、過去の人類の経験全体を自分の経験としてたどるわけにはいかないだろう。同様に、過去にすでに誰かが経験したことのある失敗を、私たちがまた繰り返して体験するのも当り前のことだろう。
 この言ってみれば“無駄な”失敗を、できれば回避したいと思うのも人情だ。それはしごく当然の選択ともいえる。
 だが疑問の余地もないこの必然的な選択も、一歩誤れば、非常に悪質なプロセスを起動する危険性があった。
 確かに生まれてきた子どもは、「あらゆる」過去の人類の経験を意識的に再体験するわけにはゆかない。どんな大人にもそんなことはできはしない。
 けれども、誰がそんなことが必要だと言ったのだろう。もし生まれてきた子どもがそれぞれ、過去の人類のあらゆる体験を意識的に再体験すべきなのだったら、この宇宙に人間はひとりいれば充分ということになりはしないか……。

 実際、子どもたちの“無駄な”失敗を前もって削除して置こうとする親の善意に始まったこのプロセスは、人類を思いもかけない結果に導いた。
 新しい子どもを迎え入れた両親は、自分たちが持っている<ソフト>の許す範囲で、可能な限りす速く、子どもに彼を取りまく事象に対する判断枠を与えようとした。
 けれども、その両親の内部規範もまた、自分自身の体験によって形作ったものであるよりは、そのまた両親から与えられたものに過ぎないことが多かっただろう。
 この「躾【しつけ】」とも「教育」とも呼ばれる“条件付け”は、大きくは人類文明を形成してきた必然的プロセスだった。

 けれども過去の人類史を見る限り、この“条件付け”の破壊的影響もまた計り知れない、とOSHOは教える。
 なぜなら、私たちが是非とも次の世代に引き継がなければならないと考える最も重要な<ソフト>とは、生き残りのための<ソフト>、つまり最も恐怖に彩られた記憶に他ならなかったからだ。
 かくて私たちは、その恐怖を切り抜けた遠い先祖たちの波動、延々と引き継がれてきたその状況判断を、ほとんど言葉を通すことすらせずに、親たちの身振りと波動による空気のような<ソフト>として、子どもたちに注ぎ込むことになった。
 無論、親は子どものためにできる限り良かれと思ってのことだったが……。
 かくて、私たちは人生の最初の最初からこの世のルール、すなわち恐怖することを教えられた。自分を護るべきこと、肉体を維持しなければならないこと、「命あっての物種」であることを……。

 そのこと自体、必ずしも間違ったことと一概に決めつけることはできない。
 けれども、このような地上での恐怖の記憶が、それを担った個体と伝統とによって、様々の方言としての<ソフト>を産むことになったのも事実だろうし、それらの<ソフト>が常に過去の方だけを向いていたことも事実だろう。そこでは柔らかいソフト、堅いソフト、受容的なソフト、攻撃的なソフト、それこそありとあらゆるバリエーションを含んださまざまな方言が派生することになっただろう。
 やがては、その方言同士の葛藤まで生まれて、それらの遺産自体が当初の目的を超えた、重くて融通のきかない負担になったことも理解できる。
 このいわば必要悪ともいえる<ソフト>のバトンタッチは、さまざまの副産物をもたらしたが、その全体的効果は、人間が生まれるときに持ってくる本来の<タオ>を否定し、その働きを無力化する方向に機能したということだろう。
 かくて、OSHOは言う。
「この地球規模の自殺は、私たちのすべての文化、すべての哲学、すべての宗教の究極的な結末だ」と。