『21世紀への指導原理 OSHO』

判断根拠からの切り離し(結果一)


 以下OSHOなる原理に照らして、“条件付け”の人間性に対する破壊的効果をいくつか見てみよう。

 先ず第一に、子どもたちはこの“条件付け”によって、自分の判断枠の根拠から切り離されるということだ。
 けれども「子ども」とは一瞬の呼び名であって、実は自分の判断枠の根拠から切り離されたのは人間そのものであることを理解しなければならない。
 子どもは、自分が疑問を持つ前に解答を渡されるために、その解答の妥当性を自分自身の経験で判断する機会を失ってしまう。子どもに限らず人間は、自分が体験したことには自分なりの判断を持つことができるが、遭遇したこともない状況に対する判断を持つことはできない。
 遭遇する状況に対して内部的に発動する何かがあるときにしか、実は私たちは判断など持っていないのではないだろうか。判断とは、状況に応じて自分の中で自然に発動し応答するものを指す言葉だろう。私たちが“条件付け”によって植えつけられる疑似的判断など、およそ判断とはまったく無関係のものかもしれない。

 例えば、私たち大人は「真面目」という価値をまったく何の疑いもなく信じている。
 私たちはきわめて真面目だし、真面目であることを立派なこと当然のことと考えている。あるいは、そんなことを考えるまでもなく、私たちはただ真面目だと言っもいい。
 けれども、この「真面目」というごく当たり前のマナーも、実はその時々の権力者が自らの権威を押し付けるために用いた無言の暴力的威圧がその起源であったのかもしれない。人類全体が見倣うべき手本ではないのかもしれない。
 OSHOは、「深刻さ」とはひとつの病いだと言う。それは「誠実」とはまったく別のものだ、と。
 けれども、私たちは普通そんなふうには考えない。
 大人である私たちは、ただ当然のこととして真面目だ。そして、けっして時をわきまえない子ども、真面目になれない子どもを叱り続ける。まるでその子どもの態度によって、大人である自分の権威が傷つけられるとでもいうように。

 また私たちは、例えば自分と他人のあり方を、あるいは自分の子どもとよその子どもを、そして兄弟同士を、絶えず比較し続ける。そしてそれをごく当然の道理に叶ったことだと思っている。いや、そんなことを意識すらしない。親である自分自身が常に比較されてきたからだ。
 けれども、もしそれが、猫と犬を比較するような、あるいは鳥と魚を比較するようなことだったとしたらどうだろうか。それでも、比較とは本当に妥当なことなのだろうか。犬は猫のように木に登れるべきであり、猫は犬のように海辺の散歩につき合えるべきなのだろうか。
 いやそれどころか、魚は鳥のように空を飛べるべきであり、鳥は魚のように水の中を泳げるべきだとでも言うのだろうか。

 私たちは、自分が何をしているのかを知らないのかもしれない。
 日常の行為の中で、私たちは自分が身に付けている“条件付け”、自分を動かしている<ソフト>を必ずしも意識しているわけではない。というより、その<ソフト>をほとんど意識できないというべきだろう。
 そうやって私たちは大人にされ、また自分の子どもを大人にしてきたのだ。
 これが、自分が身につけている“条件付け”の根拠から切り離されることから派生する事態だ。
 その根拠は、過去のある瞬間には確かに妥当な判断だったが、今の時点ではまったく不適当なものになっているのかもしれないのに……。

 そして自分の“判断”の根拠を問うことのできない者は、従順にその判断に従う限り、その判断枠を修正できる可能性はない。
 私たちが“条件付け”のこの副次効果によって失う物は、実は判断力の一部ではなく、成長の可能性そのものなのかもしれない。