『21世紀への指導原理 OSHO』
「在る」から「成る」へ(結果二)
“条件付け”の第二の波及効果は、人生は子どもにとって(子どもとは一瞬の呼び名だった)素朴な体験の過程ではなく、適応しなければならない不可解なやり口の集積物に他ならなくなるということだ。
そしてそのことの最大の結果は、子どもにとって(つまり人間にとって)最も大事なことが、「在ること」ではなく「成ること」になったということだ。
このことの波及効果、影響の範囲には、実は想像も及ばないものがある。
口には出さなくても、人生は闘いだと思っている人はたくさんいるし、また口に出して言う人もたくさんいる。
この“闘い”という言葉の中には二つの要素が反映している。ひとつは「比較」と「競争」ということであり、もうひとつは“自分以外の者になる”ということだ。自分以外の者になることは、それ自体が苦闘であり、努力でしかない。しかもなお、それは不毛で不可能な努力でしかありえないだろう。
人が自分以外の者になろうとしたとき、そこから“失敗”と“成功”が派生し、そして本質的な意味での“失敗”が運命づけられる。
歓喜から生まれてきた人間を、苦闘を通して失敗へ導くものがこの「成る」という大きな<ソフト>だ。
自分以外の者に「成る」ことはできない、そうOSHOは端的に教える。
成るように強制されたものがその人の本性であったら、その人は自らを実現し“成功する”こともできるだろう。しかし、そんなことはめったに起こることではない。大部分の人間がこの「成る」という努力の中で消耗し倒れる。そして“成功した”人もまた、成功すらする必要のなかった自分には成り損ねる。
自分とは、誰かに向かって証明すべきものではなく、自分が歓ぶことでただ顕現する何かだ。
創造という行為は、証明する必要がなければないほど、それだけ自然な創造行為となり純粋な歓びとなる。証明する必要があればあるほど、その分だけそれは歓びから努力に転化する。自然な流れを妨げられて歓びから努力に転化するのは同じエネルギーだ。
「成る」ための努力とは、自分を否定されるべき自分と否定する自分の二つに分裂させ、その葛藤を通じて自分の中の一部を否定し去ることだ。
創造のエネルギーがどれだけ純粋に燃えているかは、そのエネルギーを通して物資次元に実現している意識体がどれだけ歓んでいるかによってしか計れない。
菫【すみれ】が薔薇【ばら】になろうと努力すれば、菫である自分を疚しく思うだろう。それでも薔薇にはなりえないだろうが、本来の菫の花も咲かせられなくなる可能性は充分にある。菫は菫になることが歓びであり、薔薇は薔薇になるのが歓びだ。人は自分にしかなれない。
自分になることは、自分で「在る」ことでしか実現できない。
これまで人が全面的に目覚めるのがこれほど稀であったのは、常に自分で「在る」ことを許されてこなかったからだ、とOSHOは言う。
この「成る」という不可能性へ駆り立てる大きな<ソフト>は、その手段として「比較」と「競争」を生みだし、相互に補強しあってこれまでの人類を苦しめてきた。そして「比較」と「競争」が大前提とされる社会の中で、人は必然的に失敗し、失望と嫉妬と空しさを運命づけられてきた。