『21世紀への指導原理 OSHO』

肉体の保持から物質主義へ(結果六)


 これまで人類の歴史が紡ぎ出してきた“条件付け”による六番目の結果は、肉体の保持に向けた関心が一種の内圧となり、強迫観念にまで変容することから発生した物質主義ともいうべきものだろう。

 親から子へ、子から孫へと引き継がれた<ソフト>の肝心な内容は、肉体の保持に焦点が合わされたものだった。
 永い歳月の経過のうちに、この関心が目に見えるいわゆる物質的なものしか信じられなくなるようなある傾向を生み出していったのだろう。それまで自明であった<生>の内容の何かが朧気【おぼろげ】になっていった。
 代わりにその物質次元の表現へ、形あるものへ、目に見えて動くものへと関心の焦点がずれていった。

 太古の昔には明らかに意味があった無形のものへの儀式も、時代を経るにしたがって、中心にあった目に見えぬその何ものかは何時か人々の視野から消え、形骸化した形式だけが意味のない些末な動きとして残ったのだろう。
 ふと気がついて見ると、その儀式の意味を内的に支えている者はもはや誰もいなくなっていた。それはもう、意味のない祭りとして滅びて行くしかない運命にあるようなのだった。
 祭りの中で活き活きと息づいていた何かは消えて、いつの間にか“結果”とか、“意味”とかいった抽象に焦点が移されていった。
 結局、大切なものとして親から子へと引き継がれる<ソフト>は、ただ物質次元の肉体を保持するためのノウハウに過ぎなくなっていくようだった。
 その一方で、人間が手にしたハードウェアが圧倒的な暴力を駆使できるようになるにつれ、目に見えない何ものかを保存していた世界を未開世界と見なし、何をしているかも知らずに、その世界を手もなく滅ぼし去った。

 地上のさまざまな地域の文化は、外見上のハードウェアによって比較され、隠れた構造としての神話的なソフトウェアは次第に客観性を欠いた幼稚な世界像としか見なされなくなっていった。
 人々は、強迫的に自らの肉体の維持、保存を追求し、我が身の安全を求め、やがてはその安全の拡大と保障を求めるようになった。
 その保障の拡大は、家族、血族、部族へ、そしてやがては私有財産とそれを守る法と国家の方向へと拡大し拡散して行くようだった。かくて人間は、安全を保障する者と保障される者とに分裂し、保障されることを願う者は人間としての尊厳を忘れあるいは売り渡し、また保障しようとする者は権力を手に入れることになった。
 私たちは、絶えず形ある物質的な富を身の回りに確認して、わが身の安全を強迫的に確かめずにはいられなくなった。
 もはや目に見えぬものの存在は信じられず、物質次元の連関だけを跡づける「科学」が、ますます緻密で確かなものとして構築されていった。

 いつの間にか、私たちは賑やかに物として現象している客観世界は認知しても、不安におびえる自分の内面は認知したくないという状況に追い込まれていった。
 例えば映画を観るとき、私たちは映像そのものの中に吸収されてその映像を観ている<自分>を意識できなくなる。私たちはそんな不思議な世界に入って行った。
 すると、私たち人間の<意識>は、その物質的な動きの反映でしかないというような観念までが生まれ、しかもその観念が逆立ちしていることの自明さが、私たちには分からなくなっていくようなのだった。
 目に見える物質過程こそが基盤であり、人間の<意識>はその物質過程という“必然”の反映に過ぎないという観念が世の中を覆っていった。
 この議論は「唯物史観」と呼ばれ、私たちはそれを疑っていいかどうかの判断力すら失ってしまっているようなのだった。

 ある物質的な必然によって、ある者は隷属し、ある者は権力を手中にし、またその同じ物質的必然によって、その隷属を脱出し、その権力を奪われるというような話を、私たちは信じなければならなくなったのだろうか……。
 これは、人間の尊厳にとってのまことに致命的な攻撃だったと言える。
 つまり人間は、自分の尊厳を認めるべきか認めざるべきかの判断を、自分自身で判断できないような状況にまでたち到ってしまったのだった。
 共産主義の実験の失敗で、「唯物史観」への信仰は崩壊したようにも見える。
 けれども物質過程への根強い依存感は、私たちの<主体>である<意識>が、物質過程の中から“偶然”に“発生”してきたものだとする観念をまだ崩壊させていない。
 そして、このことはけっして“偶然”ではないかもしれない。これこそが新しい時代に向けての私たち地球人類の解放過程の中で、最後の仕上げに残されているステップであるかもしれない……。