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『21世紀への指導原理 OSHO』より
七つの身体論
いうまでもないことかもしれないが、以上の「欲望の四つの階梯」は、OSHOなる原理に基づいているつもりはあるものの、筆者のマインドの構築物に過ぎない。
実は、OSHOなる原理には、<意識>の科学として実際の内的体験に基づいた、もっと厳密な「七つの身体論」が秘蔵されている。
それは、それぞれのレベルで実在と夢を支える七つの身体の存在とその超越を語る、壮大な内的探検のための地図だ。
そこでは、私たちの肉体が日常的に支えている顕在意識である“フィジカル体”と“フィジカル夢”(“フィジカル体”が見る夢)との対で始まる、七つの身体の意識とその夢の大伽藍が語られている。
すなわち①フィジカル体(肉体意識と肉体夢)、②エーテル体(エーテル意識とエーテル夢)、③アストラル体(アストラル意識とアストラル夢)、④メンタル体(メンタル意識とメンタル夢)、⑤スピリチュアル体(スピリチュアル意識とスピリチュアル夢)、⑥コズミック体(コズミック意識とコズミック夢)、⑦ニルヴァーナ体(ニルヴァーナ意識とニルヴァーナ夢)の七つの身体論だ。
最も粗いレベルである“フィジカル体”での「実在(の意識)」と「夢」の差は最もかけ離れており、より微細な身体レベルになるにしたがって「実在」と「夢」の差は小さくなり、最後の“ニルヴァーナ体”ではニルヴァーナ意識とニルヴァーナ夢は同じものだという。
「真空」の中にはそのようなさまざまの波動域があって、私たちは<意識>の鏡としての明晰度を高めていくことで、そのような波動帯のパターンを映し出せるのだろう。
肉体という寺院の中で、ある波動域からより高い波動域へ移行するには、それより前の波動域の“夢”が開放されていなければならないという。
各波動域の固有の“夢”には、独自の魅力と執着があるらしい。
その“夢”は、受け入れられ表現されることによって解きほぐされ、超越されるという。抑圧することによってその“夢”は表現を妨げられ、何か実体的な力の様相を帯びるという。受け入れられて表現され、表現されて開放される。
それが、この「真空」の中に実在する各波動域を垂直に移動する方法だと、OSHOは教える。
しかしこのような話を私たちが聞くことは、(物質科学に翻訳すれば)言ってみれば幼稚園児が核物理学の講義を聞くようなもので、それなりに分かったような気はし、私たちの前に広がる広大な内的冒険の領域を予感させはするものの、実質的な何かの理解が私たちの中に起こるわけではない。
私たちには、もっと身近な「欲望」の世界、“欲の娑婆”のあり方を展開し、俯瞰してみることが必要なような気がする。
日常的に「欲望」という“夢”そのものを生きている私たちが、自分が観ている“夢”に気づくためには「両端を観る」ことを覚えるしかない、とOSHOは教える。
何故なら、「欲望」が紡ぎ出す“夢”とは、まさにマインドが一点に焦点を合わせることによって発生するものだからだ、と。
「欲望」の愚かさとは、マインドの本質に由来する愚かさだ。つまり、焦点を合わせることができるという、マインド固有の能力そのものに起因する愚かさなのだ。
では、「両端を観る」とは何か。
「両端を観る」とは、できるだけ意識して欲望し、その「欲望」の結果を覚えていることではないのだろうか。
そして、二度と同じ間違いを犯さないことだ。
今度はもっと意識して、もっと賢く欲望することだ。それしかない。
そうすれば、何時か「欲望」は疲れる。
「欲望」について信頼できることがあるとすれば、それは“欲望の疲労”だけだ。
しかし、上手くやらないと「欲望」はその疲労までたどり着けない、とOSHOは教える。
中途半端な意識的努力では、人間は「欲望」に疲労する前に「肉体」で疲労してしまう。すると人間は、もっと上手く欲望すれば良かったという「思い」を残し「欲望」の“種”を残したまま、「肉体」だけを取り替える。
そして、ゼロからまた始める。そしてまた、千とひとつの愚かしいことを、自ら不幸になるだけのことを欲望する。
無論自分では、それが一番賢いことだと思って。
自らの不死を知らずに、「肉体」の生き残りという不可能を目指して……。
だが上手くやれば、「欲望」は「欲望」自らの愚かさに疲れることができる、とOSHOは教える。
欲望しながら、「両端を観る」ことを覚えていくことができる、と。
「ただ油断なく醒めて、ものごとをあるがままに見続けなさい。それが過ちだったら、それを過ちだと理解するだけで充分だ。その過ちをまた犯すことはない。『二度とこんな過ちを犯さないようにしよう』と決心する必要もない。それを理解しさえすれば……。いったん、二足す二が四で、五ではないと分かったら、『二足す二が五だというような、同じ過ちは二度と犯すまい』などと決心したりはしない。その必要はない--間違いが分かったら、それは消えてしまう」
そうすればその過程で、「欲望」の位相が煮詰まるにつれて、個々の「欲望」にはっきりしたある徴【しるし】が現れてくる。
それは、“魂の憧れ”として熟してくれば来るほど、その「欲望」が投影する未来までの距離が短くなってくるということだ。
“肉体の夢”と“魂の憧れ”が織りなす“欲の娑婆”の中で、未熟な「欲望」であればあるほど、それは遠い未来を夢見る。「欲望」として熟してくれば来るほど、それが投影する未来は、直前の“今”に近づいてくる。
そして、本当に熟しきった「欲望」は、もう未来に夢を紡がない。
自分が持っている最大の宝“今ここ”を、ひたすら“味わう”だけ、“生きる”だけだ。彼は、それよりもっと“得する”ことなどできないことを知っている。私たちには“見逃す”ことしかできない。自分以上に“成る”ことなどできないのだから。
それこそが、「成る」という「夢」の実相だった。
OSHOはいう。
「変化するものにはすべて目的がある。何か為されるべきことがあり、目的を持って存在している。そして、その目的が成就された瞬間、それは存在しなくなる。
だが、真に存在しているものには目的がない。成就されうる目的などないからだ。わずかでも目的があり、それが成就されるとしたら、存在は無意味なものになってしまう」
「存在は目的を達成するためにあるのではない。だから、存在はリーラ--遊戯--と呼ばれる。存在そのものには成就すべき目的などない。存在はどこにも向かっていない、それには終着地がない。だが、それでもそれは動いている。それでも多くのことが起こっている」
「なぜものごとが起こっているのかと尋ねてもいい。ものごとが起こっているのは、それを止める目的もないし、また止める者もいないからだ。止める者もいないし、止めようとする目的もない」
(p304-309)