『21世紀への指導原理 OSHO』
<ソフト>の必然的帰結
自然環境破壊、南北格差、人口爆発、このような問題は、人間の従来の<ソフト>のその意図全体に対して、地球という全体環境が解答を示したものだ。今までの延長上にある技術的努力によっては解決できないことに、その特徴がある。
それがそのような“努力”によって解決できるものなら、とっくに解決されていたに違いない。
これまで先進諸国は、自国の豊かを願い、他国に遅れをとることを嫌って、その開発が途上国に利益をもたらさなくても、それを意識せずに済ますことができた。また途上国の人たちも、それを少し規模を小さくした形で、同様のことを願って行為してきたかもしれない。
けれども、個々の人間の思惑はともあれ、その行為全体に対して地球環境は、区別なく「全体」としての解答を出さざるをえない。その結果起こる「問題」は、私たち人間の意識が無視した部分の集積的顕現として立ち現れることは確かだ。
従来の<ソフト>の集積結果が地上に現出した南北格差は、今や縮まるよりはむしろ拡大の傾向にあるという。
「発展途上国」という言葉自体、この上もない偽善の言葉と化してしまった。
途上国は内実ともに豊かな世界への発展の途上にあるのではなく、過去の精神的な豊かさはもちろん、旧来持っていた物質的富すら失いつつあるらしい。
先進諸国間の競争に負けないだけではなく、途上国によっても追いつかれ追い越されないことを願って懸命に頑張った“先進諸国”のまさにその努力が、構造的な歪みを嫌が上にも拡大したのだった。
途上国が追いつける余地がないどころか、その格差の拡大によって構造そのものが不安定になり、今やそれ自体存続不可能になってしまったということだろう。
「全体」からのフィードバックがこれほど加速されたのは、無論、「全体」としての地球が小さくなったためだ。地球環境という「全体」の中で、人間活動は相対的にあまりにも大きくなってしまった。
エコロジーとは、このような時点で立ち上がって来た理解の枠組みだった。「全体」を考えずには、もはや現状そのものの安定的存続すらおぼつかなくなってきたからこそ生まれた視点だ。
自然環境の問題も南北問題も、現在私たち地球人類が問題として取り上げるようになった問題はすべて、これまで地上の人間が意図し、願ってきたことの実現の結果だというしかない。
そういう問題は、従来私たちを衝き動かしてきた私たちの背後にある<ソフト>そのものの結果として出現した「問題」、私たちの意図の“成功”によってもたらされた「問題」だろう。“成功”によってもたらされた「問題」を、その“成功”を加速することで解決することはできない。
それは、ナイアガラの上流から滝に向かって進んでいる筏【いかだ
】がその進み方をどのように洗練し効率化しても、いずれにせよ滝壷に近づいて行くようなものだろう。
まわりの風景が視野に入り、個々の見通しと欲望の効率化の結果が、結局滝壷への進行を速めているだけであることを理解しない限り、その「問題」の解決はありえない。
今世紀の末までに煮詰まっていく大きな「問題」は、すべてそのような「問題」だといえる。
私たちは、自分の“意図”が実現しないことによって「問題」が発生するのだと思いたい。が、実際は、「問題」は私たちの“意図”の成功がもたらすものだ。
どうやら、私たちは上手く欲張らなければならないようだ。賢く立ち回るのではなく、賢く欲望しなければならないらしい。
本当に“賢い欲望”などありうるのかが、問題になってくるほどに……。