『21世紀への指導原理 OSHO』
<ソフト>、<意識>の焦点
今の世を作っている私たちは、毎日ただ食事をするためにすら膨大なゴミを出す。
そのとき、私たちは取り入れる物質的な富の方に意識の焦点を合わせ、その結果押し出す“ゴミ”の方には意識の焦点を合わせたくない。
とりあえず目の前から消えれば、そのゴミは存在しなくなる……というふうに。
けれども、人間の視野から消えたそのゴミは何処へ行くのか。
何処へも行きはしない。「全体」という環境の中の何処かに蓄積されることを、私たちはみんな頭では知っている。
現在私たちが地上に現出させた問題は、すべてこのような問題と考えて間違いない。
マインドは<意識>の焦点として機能しているため、私たちは何かに焦点を合わせ、それ以外を見ないでいることができる。
けれども「全体」は、その無視されたものをどこへも追いやることはできない。どこへ追いやろうと、そこは「全体」の一部でしかない。
<意識>の焦点である「欲望」が起動した事象は、いずれにせよその結果を「全体」の中に集積する。物理次元における集積の結果は、物理法則によって支配され進み、私たちの意識的、意図的行為によって介入されない限り、その流れは変わらないだろう。
ゴミとして膨大に蓄積されたものはやがてその存在を主張し始め、「全体」にあからさまな影響を及ぼし始めるだろう。
ゴミの問題の解決は、ゴミをゴミであるとする判断枠の中からは生まれて来ない。
ゴミを全体系の中の無視された部分としてではなく、有機的な一部として取り込みうる視野が生じて初めて、ゴミの問題の解決の可能性が生まれるに違いない。
フロイトは、人間の認知された<ソフト>であるエゴが、脳の中に発生するさまざまな“想念”を検閲して抑圧し、一方抑圧された“想念”が、潜在意識という膨大な層を構成して、逆にエゴの手に負えないものに成長してゆくドラマを摘出した。
一世紀遅れて現在の地上に現出している問題は、公認の<ソフト>を頭上に戴【いただ】く人類が、その<ソフト>が無視した膨大な事実の集積結果から“反乱”を受けている姿といっていいだろう。
<ソフト>は本来、生命世界<タオ>に寄生してしか存在できない無生命の現象だ。
けれどもそれだけに、<ソフト>にはある種のタフネスがある。<ソフト>こそはタフな存在だ。
<ソフト>とは、元来は“柔らか”なもの、別の<ソフト>に差し替え可能であるべきものだろう。ところが実際は、いったん中心を乗っ取った<ソフト>に、そのことを了解させることは至難の業であることが分かってきた。
その理由は、不良な<ソフト>がその不良ゆえに自ら苦しむことはなかったからだ。
苦しむのは、その不良な<ソフト>を負った<タオ>だ。
私たち人間が、エゴの顔を立てて自殺することがあるのはそのためだ。
地球も私たちのように、エゴのために自殺しなければならないのだろうか。
<ソフト>の拘束力が強すぎて、またその<ソフト>の意図を実現しようとする「全体」の対応が優しすぎて、地球環境が自分を滅ぼす可能性だって考えられるはずだ。
私たちは、むしろそちらの方を心配すべきかもしれない。
だが、恐らく、そうではないだろう。
生命世界は、もっともっと、驚くべきドラマを秘めているに違いない……。