『21世紀への指導原理 OSHO』

私たちを乗せた全身、地球


例えば、下半身の皮膚が大きく剥【は】がれ、赤むけの肉が糜爛【びらん】状態で大きく露出しているとしよう。
 本来しっとりとした水分を保って人体を守っていた皮膚はそこで大きく破れ、皮膚呼吸は行われなくなり、生体の抵抗力は著しく損なわれる。そのようにして全身が生きるか死ぬかの危機に立ち到ったとき、両手が、また上半身が、「あれは下半身の問題だから、下半身が解決すべきだ」と放言するような事態が考えられるだろうか。
 無論、そんなことは考えられない。
 全身が自分の身体であることを私たちは知っているし、下半身が痛むとき痛むのは“私”だからだ。防御膜をなくした下半身の傷をそのまま放っておけば、そこから大量に入り込む病原菌に抵抗することもできない。最終解答はたちまち全身に現れ、下半身だけでなく、両手も上半身も、つまりは全身が生きられなることを私たちは自明のこととして知っている。

 けれども、現在地球が陥っている同じような窮境を前にして、私たちの判断力は自分の肉体を見るときのようには明晰でない。
 地球上の多くの大陸でたくさんの表土が削り取られ、流出し、赤むけの姿を晒しているとき、また地表の生物の防御膜である表土とそこに含まれる水分が汚染され消失して行くとき、私たちは相も変わらず、「国家」とか「宗教」とか「企業」とかいった実在しない虚構の枠組みに縛られるしかない。
 少年の日のグルジェフが間近に見た、地面に描かれた円の中に呪文で閉じ込められたジプシーのように、金縛りになって身動きできない。

「国家」「民族」「宗教」といった既存の枠組みをリアルな実在と考える限り、現在地球を覆っている問題に対する問題解決“担当者”は、この地上に存在しないということになるだろう。
 過去から私たちが大量に燃やしてきた化石燃料が、ここに到って私たちが毎年自分の肌で感じとれるほどの異常な速度で大気圏の温度を高めつつある。けれども、それがいつか極地の氷を溶かし海岸線を高める可能性があると言われても、そのことに対して即座に“自分”が解決に当たるべき立場の問題担当者は、現在この地上には存在しない。

 膨大な化石燃料の消費は、ここに到ってさまざまの国に酸性の雨を降らせ、森林と湖沼と作物に大きな被害をもたらしている。人体の皮膚に行政区画が存在しないように、雨を降らす雲にもむろん行政区画は存在しない。
 私たちが非常に便利に使ってきたフロンガスは上空に昇って、オゾン層という地球の薄い防御膜を破壊しているのだという。私たちは地球のオーラである大気圏にまで、甚大な変化をもたらしてしまったらしい。
 私たちと一緒に今世紀を迎えた熱帯雨林の半分は、今やない。
 八〇年前八〇%が深い森だったアフリカの緑は、今は三%になっているという。世界の森から、毎年フィンランドの半分の広さが消えていっている。切り倒された樹木は植林されず、毎年植林地の十倍の森林が消えていっているという。世界最大のブラジルの雨林は今後一五年以内に地上から消えると生態学者が予言する事態なのだ。

 熱帯林と共に酸素生成の半分を分担している海の植物プランクトンも、工場廃液の酸を浴びて今や死滅しつつあるという。
 一〇年前、映画『沈黙の海』で有名なジャック・クストーが地中海の死が差し迫っていると予告したとき、大部分の科学者たちはそれを取り越し苦労だと言ったそうだ。今や、地中海は死んだ。今度はそのクストーは、大西洋の中の全生命はここ一〇年の内に死滅するだろうと予言しているというのだ。
 酸素の生産が減少しつつあるだけではない。
 世界中のあらゆる形と規模の何億台という内燃機関がその酸素を消費してもいる。今この瞬間にも何百億、何千億立方センチの酸素が世界中の内燃機関によって消費されている。自動車は私たちのまさに呼吸そのものを吸い込んでいるらしい。

 地上の多くの土地が砂漠化の危機に晒されているという。今やアフリカは破滅的な食糧危機に突入しつつある。分配の問題もさることながら、わずかに残っている地球の皮膚、生産性のある表土、水を保った植生の可能な地域を、今の急場を凌ぐために、再生産不可能な収奪に晒さなければならないからだという。

 下半身の皮膚が大きく剥がれたとき、その赤むけになったその部分の細胞は、そこで起こさなければならない当然の反応を起こすだろう。
 それを非難することはできない。
 そこでは慢性的な飢えによる圧倒的な無気力が地表を覆っているだろうし、砂漠化による植生の減少は食糧だけでなく大気中の酸素レベルも減少させ、その痛めつけられた“細胞”たちの正常な判断力まで奪っていることだろう。
 しかし、災害がその担当部署の細胞の努力だけでは克服できなければ、私たちはむろん健康な両手を使い、頭を働かせて、その窮地に陥った下半身を救おうとするだろう。
 まさに、自分が生きるか死ぬかの問題なのだから。