『21世紀への指導原理 OSHO』

「汚染」とは何か


地球環境と私たち自身をこれ程までに崩壊させた成りゆきを思えば、「汚染」というプロセスに思い到らないわけにはゆかない。
「汚染」とは、<意識>の“焦点機能”に由来するものだった。
 それは内部過程としては「汚染」と呼ばれ、外部からの働きかけとして捉えられて「搾取」と呼ばれる。
 それは、生命に寄生した非生命過程の、生命過程への侵食のプロセスだった。

 豊饒な生命の発現が、何らかの形で妨げられることを「汚染」という。
「汚染」が起こるためには、「汚染」を受ける対象が存在しなければならない。
 その「汚染」される対象は、本来豊かな可能性を持った豊饒なエネルギーだ。
 それは物質界では個々の資源を表し、その総体を指して環境と呼ばれることもある。また内面の世界では、「生命力」、「愛」、「性エネルギー」などと呼ばれるだろう。
 それは生命力そのもの、途方もない潜在力を秘めた豊饒なエネルギーの氾濫だ。

「汚染」とは、その膨大なエネルギーの氾濫を、本来の可能性とは異なる姑息な目的のために「搾取」することをいう。
「汚染」されるエネルギーは、そのような姑息【こそく】な目的からすればあまりにも大きな可能性を実現すべく溢れているために、このエネルギーを「搾取」して、別の姑息な目的のために流用することは実に容易な業【わざ】ともいえる。
 環境汚染にせよ、人間のマインドの世界における汚染にせよ、「汚染」があまりにも容易であるのはそのためだ。

 その姑息な目的からすれば、汚染されるエネルギーはあまりにも膨大であり、一見、資源は無尽蔵であるかに見える。
 けれども汚染が構造的になれば、無尽蔵と見えたエネルギーも構造的に汚染され、本来の潜在可能性を実現するだけの余力を持たなくなる。そして本来の潜在力を顕現せずにあまりにも時が経つと、今度はそのような可能性があったことすら忘却されてしまう。
 膨大なエネルギーはいつか汚染者によって搾取され、飼い慣らされ、いびつなエネルギー表現をしか取れなくなる。
 かくて本来の野生のエネルギーは汚染者によって飼い慣らされ、従順な家畜になる。
 そして時には、家畜の役割すら果たすことができず、愚かな汚染者と共に息絶えることがあるかもしれない。

 つまり、「汚染」の実現には三つの要素が絡んでいることになる。
 一つは、汚染者が汚染する対象の本来の潜在可能性を知らないということだ。
 その場合、汚染者に本来のエネルギー表現のビジョンが存在しないため、汚染されるエネルギーがどれほど姑息な惨めな表現に終わっていようと、そこでどれほど貴重なエネルギーが汚染されたのかが意識されない。

 二つには、汚染者のいじましい意図に比べて、汚染されるエネルギーがあまりに良質、豊富であるために、汚染者の予想を超えて「汚染」が“成功”するということだ。
 汚染者は自分のケチ臭い意図に囚われているため、自分が汚染しつつあるエネルギーが、自分の意図とは不釣り合いなほどに貴重な資源であることが分からない。
 自分の意図からすれば、それが成功し過ぎであることに思い到らないのだ。
 その意味では、「汚染」には「倒錯」と重なる側面がある。
 いずれも何らかの形の膨大な生命エネルギーが、本来の表現とは違ったある姑息な歪んだチャンネルに流され、卑小な表現で終わってしまう。
 共通しているのは、そこで資源とされるエネルギー本来の、潜在力の顕現が挫折させられるということだ。

 三つには、「汚染」というプロセスで取り出される利得あるいはエネルギーは、汚染される対象本来の潜在可能性を「破壊」することによって得られているということだ。
 それは「破壊過程」だった。ただ、この「破壊」は必ずしも自明ではない。特に汚染者にとって自明ではないに違いない。
 けれども、私たちはここでひとつの判断基準を手に入れることはできるはずだ。
 すなわち、それが何かの本来の姿を「破壊」することによって得られている利得あるいはエネルギーなら、それは「汚染」というプロセスを起動している可能性があると。