『21世紀への指導原理 OSHO』

“内なる”「汚染」


理解というプロセスには、バケツに水を溜めるのと似たところがある。
 一定の水が溜まれば、その水はバケツの上から溢れ出る。
 一度そうなれば、理解は達成された。そこで達成された理解は構造となり、内部の水に変容が起こる。一旦そうなれば、水は無尽蔵にバケツの上から溢れ出るかもしれない。

 ところで、まだ水が溢れていないバケツの横腹の、下から一〇センチほどの所に穴を開けたらどうなるか。
 そのバケツの中の水は、本来はバケツのいちばん上から溢れ出すだけの潜在能力を持っている。しかし表面から溢れ出るまでは、バケツに水が一杯になるまでそれを抱えていなければならない。
 特にそのために何をする必要もない。ただ溢れるまで待たなければならないだけだ。
 ことさらないじり方をしない限り、それは必ず溢れる。
 けれども、そんなバケツでも、途中のどこかに横穴を開ければ、水は間違いなくそこからほとばしり出る。
 もともと、バケツの一番上から溢れ出るための潜在力を持っているのだから。
 だがバケツに横穴を開けることで、その水はもう上から溢れ出すことはなくなる。

 現実の個々の「汚染」が、すべてこのような単純な比喩で理解できるはずもないが、ここには「汚染」というもののある側面が表現されている。
 なぜ「汚染」が容易であるのか、なぜその「汚染」がこれほどにも成功するのかが。
 そしてその「汚染」は、実は必ず背後に隠された自然そのものによる浄化のプロセスによって成立しえている。
「汚染」は、自然が行っているこの浄化のプロセスを意識的、無意識的に無視することによって可能になっている。この浄化のプロセスが視野に入ってきたとき、「汚染」を行わせていた幻は消えて、「汚染」は自ずから消失する。

 物理次元で性エネルギーの形をとって、覚醒への旅を続けている人間には、覚醒の旅の全行程を走り抜くのに必要なだけの上昇の意図とエネルギーが与えられているだろう。
 その旅の資源は、旅の始まりほど純粋で強く、その意味では搾取も容易だといえる。
 性エネルギーの本来の発展を中断させ、それをどこかの未熟な階梯で停滞させることによって可能になるポルノグラフィーは、だからその本来の可能性とはおよそかけ離れた姑息な表現に、性エネルギーを閉じ込めることによって成り立っているといえる。
 性エネルギーそのものは、もっと遥かに雄大な旅の後に起こる開花のためのエネルギーであるために、その中途段階での「搾取」ほど容易に実現するものはないだろう。
 進路を強引に曲げられ、袋小路に誘い込まれた性エネルギーは、惨めな人工の迷路の中で氾濫させられる。

 ポルノグラフィーとは、性エネルギーがある程度成熟した段階での搾取の形だが、これをもっとずっと幼い形で搾取し、汚染することもできる。
 それは本来、自然の神秘に目覚めるための子どものランダムな好奇心、“センス・オブ・ワンダー”そのものの汚染、搾取だ。
 親の愚かなビジョンから生まれた幼い頃からのいわゆる早期教育、子どもの孤独を容赦なくビジネスの対象とするいわゆるゲーム、本来の潜在能力からすれば、あたかも限りなく意識のレベルを下げることを目的にしたかのような俗悪テレビ番組、それらすべてが寄ってたかって子どもたちの豊饒な搾取資源、好奇心を食い物にする。

 無論これらの「汚染」は、それを無償で浄化しているプロセスが視野に入らないことによって成立している。
 地球の環境破壊が、大地と海によって癒されているように、人間のマインドという汚染資源は、生と死のサイクルによって癒されている。すなわち汚染者は、いかなる環境汚染税も払うことなく、誕生によって癒されてくる無垢で好奇心に満ちた膨大な子どもたちのマインドを資源としているということだ。

 誰が、何のために、何を、汚染しているのかを、はたして私たちは意識しているだろうか。これほど子どもたちを搾取し、これほど子どもたちを痴呆化させて、はたして以前より住み易い世界が生まれただろうか。
 私たちは何を食べているのだろう。
 自分の手を、自分の足を、そして自分の頭を食べているのではないのか。