『21世紀への指導原理 OSHO』

“外なる”「汚染」


“外なる”「汚染」は、“内なる”「汚染」をそのまま外界に現象させたものだ。
 あらゆる「汚染」は最後には、狭くは“地球”という、広くは大宇宙という物質環境と、人間の想念の世界に蓄積される。それはまさに鏡像のように互いに照応し合っている。その想念は集積して、全体で地球のオーラとしての想念の世界を形成する。

 地球上の自然環境「汚染」とは、汚染され破壊されるエネルギー資源が、本来の姿を実現しえず、姑息なビジョンと卑しい意図によって搾取され、惨めな残骸を晒すことだ。
 端的にいえば、現在の地上の自然環境破壊とは、いわゆる先進国が「市場原理」なるものを楯に自由貿易という“正当な”経済行動として途上国に押し込み、あえて途上国の不利益には目をつぶってその環境資源を搾取したことで起こされたといえるだろう。
 もう少し乱暴な言い方が許されるなら、より抜け目のないずる賢いマインドが、結果が自分を襲って来ることはないという見通しの下に、より無垢でうぶなマインドが住んでいる地域の地球環境を搾取し、その結果、より無垢でうぶなマインドが窮地に陥り、苦し紛れに見通しのない資源の略奪を始めた結果だといってもいい。

 例えば熱帯雨林の消失にしても、あるいは原子力発電の事故による放射能汚染にしても、これが「国家」という境界内で解決できるような問題でないことを理解するのに、どれほどの理解力が必要だろうか。
 しかも、放射能廃棄物による汚染となれば、これはもう現在の地球上の国々の段階で収まる問題でさえない。なにしろ、遥か未来の人類の生命を担保に私たち現在の人類の生活を“豊か”にしようというのだから。

 現在残された熱帯雨林を保有し、それを日毎に消失させている国々、今地球の肺の鍵を握っている国々、一般に地球環境の鍵を握っている国々は貧しい国々だ。
 貧しい国々が死者を出すほどの飢餓に対処しているとき、富める国々がそれを傍観するなら、飢えた人々が焼き畑であれ何であれ、今の命を繋ぐための努力をしなければならいのは当然のことだ。
 今日の食糧には困らないがために、明日の生存環境が破壊されて行くのを傍観している富める国々の人々に、それを非難する権利などあるはずもない。

 だが、いったん「国家」という枠を取り払って、地球環境という全体の中での共同の住人という立場に視点を変えたとたん、それがどういう意味を持つ事態であるのかが明らかになる。それと同時に、その解決のために為されなければならないことが何であるかも自明になる。一国の中で地震の被害を受けた地域の人たちに、どのような手が差しのべられなければならないかが明かであるように。

 かくて、すべての準備は整った。
 今初めて、「全体」としての地球環境は、私たちがどのように応対しなければならないのかを、直接私たちに教えることができる。私たちが地球からの直接のメッセージを受け取らなければ、私たち以外にそのメッセージの受け手もいなければ、またその結果を“担当”する者もいないだろう。
 私たちは今初めて、「全体」を考えなければ自分自身の存続そのものが脅かされるような段階に立ち到った。
 つまり、私たちは自分が“意識”という「全体」であることを、いやでも認めなければならない事態に立ち到り始めたのだ。
 けれども、私たちにそれが可能だろうか。
 何より、私たちの現状のままで、世界をひとつにすることなどできるものだろうか。

 そしてここでもまた、私たちを“眠り”に誘い、無責任と偽善に導こうとするある力が働き出すことだろう。
 道は二方向しかない。
 覚醒に向かうか、眠りに向かうか、その二つしかないことを覚えているしかない。
 何時も、問われていることはひとつしかない。“誰が本当に<意識>の担い手であることを証すのか”と。