『21世紀への指導原理 OSHO』

“卒業式”と“別れ”


この大きなひと“めぐり”の最終段階の地球には、色々奇妙な話が持ち上がる。
 それらはすべてこれまでの地球の常識とはおよそかけ離れた出来事かもしれない。けれどもそれが起こったとき、そのためのあらゆる心理的、物的証拠が地上に存在していたことを、私たち地球人は知ることだろう。
 それらの証拠は論理的に考えてみれば、どうしてもそうであるしかないだけの論理的整合性を持っていた。

 ブルーノの火炙【あぶ】り以来、また老人ガリレオのユーモア溢れる妥協以来、地球の科学は<意識>という宗教と交差する次元の探求に一切背を向けてしまった。
 そしてそれを放棄したことの結果が、それと関係するさまざまの科学的証拠を無視するような強い目隠し作用を果たすことになってしまった。
 ガリレオ以後、地上のあらゆる科学者たちは、あたかも<主体>である自分が存在しないかのような素振りで科学的研究を進めることになった。
 その結果科学は、迷信体系と成り下がった「宗教」の権威に屈服し、ひたすら支配のゲームに専念する「政治」の奴隷と成り下がった。そのような歪みを受けた科学マインドが従来無視してきた様々の物的、科学的証拠を伴った色々な事柄が、この大きなひと“めぐり”の終わりには噴出して来ざるをえないだろう。

 ほとんど地上の全権力を手中に収めたかに見える国際金融資本は、その権力を守るために、全宇宙を敵に回す覚悟をしなければならないことになる。
 地上の権力を守るためにそのことが真に必要になるというのではない。ただ、「支配/被支配」の言語しか理解しようとしなければ、その人たちはそのようにしか振る舞えないだろうというだけだ。
 その人たちは、この地球をいわば宇宙から隔離するために、その内面において全宇宙を敵に回さなければならないだろう。
 全宇宙を敵に回す! いや、それは難しいだろう。
 それは、単にひとつの病い、彼らの何時か醒める悪夢であるにすぎない。
 彼ら地上の権力者たちのマインドにも、現在の地球次元に固有な濃密な靄がかかっているに違いない。この上なく“切れる”この人たちにも、真実に直面する真の勇気はないのかもしれない。そして、地球が駄目になったら他の星に移住するというような、身の程を知らない夢を見ているのかもしれない。

 この大きなひと“めぐり”は、さまざまな意味の“歩留まり”を定める一種の期末試験のようなものだと言えるかもしれない。
 地球の統一支配を目指してきたこの人たちの仕事も、ここで最終解答を受けることになるだろう。そして、この人たちの仕事こそ、最終的成功が、成功の終わりという宿命を内包していた。
 もともとこの人たちの仕事の完全な成功とは、全体環境としての地球自体の滅亡という特殊な性格のものだった。その目的そのものが、“有機系”である生命体の中で唯一最大の“部分最適化系”として増殖し、その生命体全体をひとつの“部分最適化系”の意志の下に支配することだったからだ。この試みが成功すれば、そのときはこの生命の星地球は滅びなければならなかった。

「分裂」と「葛藤」の論理しか理解できず、分割し支配する権力しか理解しようとしない彼らには、どうしても見えてこない世界があるのは仕方がない。
 世界とは「個」でしかない。
「個」こそがひとつの宇宙であることを知らなければならない。
 彼らが支配できるのは、彼らが提供するものを欲しがる個人だけだ。
 自分が自分の光であり、自分の宇宙であることを知っている者、彼らから何ひとつ分け前を求めない者を支配することはできない。だがそのような世界は、そのことをけっして理解しようとしない者にとっては、住むことを望まない世界、住むことができない世界ともいえる。

 この大きなひと“めぐり”の最後には、これまでこの地球という星でいっしょにやって来たひとまとまりの想念の世界が分裂してしまうしかないのかもしれない。
 これまで地球上に転生し、地球という集団的<意識>次元の中に生を得てきた魂たちは、ここで大きく袂【たもと】を分かつことになるのかもしれない。
「支配」と「搾取」というゲームをどうしても忘れられない人たちは、自らの尊厳において自分の道を選択することになるのだろう。

 また別の一団の人たちは、宇宙の中ではあらゆる命が「対等」であり、互いに生かし合って生きていることを知っているために、どれほど高い科学を操れる知的生命体に対面しても無闇に恐怖することはなく、その人たちをあたかも家族のお兄さんお姉さんでも見るかのように受け入れることができるだろう。
 私たち地上の人類がそのようになったとき、これまでUFOと呼ばれていた飛行物体が、衆人監視の中で私たちの地上に降りて来るような事態さえも起こるかもしれない。