『21世紀への指導原理 OSHO』
二つの磁石
すると、いやいや真の支配階級はそんななま易しいものではない。そんな下っ端は真の支配のための手段として使われる歯車に過ぎない、という声が上がるかもしれない。
けれども、そうだろうか。
国際金融資本がどれほど強力だとしても、地上の富のほとんど全てを手中にしているとしても、それらの権力者たちが私たち個々人の人生を生きているわけではない。
その人たちが手中にしているのは、貨幣として抽象化された私たち個々人の「欲望」でしかない。私たち個々人が生きている人生そのもの、私たちの「今」そのものが、その人たちの手に握られているわけではないのだ。
それなら、地上の抽象的な富のどれほどを手中にしていたとしても、その人たちが生きられるのはその人自身の「今」でしかないだろう。もし、その人たちが“支配”の夢の中に我を失っていれば、その人たち自身も、自分の「今」を失った単なる愚者のひとりに他ならないということだ。
すると、こういうことがいえないだろうか。
国際金融資本も、なけなしの貯金を巻き上げられる庶民も、同じゲームの両端を演じているに過ぎないということに……。
それは“安全”なるものを供給する者と、供給される者のゲームだ。
“安全”を“保障する”という者と、“保障して欲しい”という者とのゲームだ。
“支配者”といい、“被支配者”といっても、それは程度の問題に過ぎない。結局それは“自分”だけは甘【うま】い目を見たい、“損”はしたくない、“得”をしたいという者たちのゲームに他ならない。
さて、しかしこれは厄介な問題だ。
これが時代劇によくある、村で十手を預かっている悪い親分が開いている賭場に、なけなしの金を持ち出して遊びに行く親父さんという図式なら、親分が悪いことは言うまでもないが、そんな賭場に金を持って出かける親父さんも親父さんだ、という常識が働く。
誰も、まさかその親父さんに自己同化はしないから、冷静に判断できる。
ところが、これが国際金融資本となると、このゲームのもう片棒を担いでいるのは、賭事好きの愚かな親父さんではない。
残念ながら、それは「欲望」を持つ個々の私たちに他ならない。
どうしても、国際金融資本には悪魔的な権力を賦与して、自己弁護のバランスを取りたくなるのも仕方がない。
けれども、親父さんが二足の草鞋【わらじ】の親分に掴まれている弱みが、その賭事好きであるのが間違いないように、国際金融資本が地上の全権力を独占するというとき、私たちが握られているのが、私たちの“部分最適化原理”であることは間違いない。
それは平たく言うなら、賭場に向かう親父さんと同じ、“自分だけは”の「欲望」に過ぎないというわけだ。
さてしかし、私たちのうちの誰が、これを“に過ぎない”と言えるだろう。
そのとき初めて、こういう疑問が浮かんでくるに違いない。
では、いったい、誰が“分割統治”しているのか……、と。
本当に、国際金融資本が、自らの意志と気づきによって“分割統治”しているのか。
いや、彼らもまた、コンピュータゲームを作らされている人たちと同じ、「欲望」を掴まれ、自ら進んで隷属している歯車のひとつに過ぎないのではないか。
国際金融資本をも、“分割統治”の対象としているその一者とは何者か。
私たちは、そのとき真のドラマを観始めている自分に気づくはずだ。