『21世紀への指導原理 OSHO』

「危機」こそ「好機」


OSHOは言う。
「私たちはマハヴィーラと仏陀の後、インドが解体したことを知っている。人々は普通、このことはマハヴィーラと仏陀ゆえに起こったものと思っている。だが事実はまさにその逆だ。実際は、崩壊が始まる直前にこそ、マハヴィーラや仏陀のように大きな器をそなえた人々が仕事をなしうるのであって、それ以前ではない--それは、崩壊の直前にはあらゆるものが無秩序になり、解体の危機に瀕するからだ」と。
 OSHOは、肉体の死が逃れようもなく確実になったとき、突然自分が肉体であるという幻想は消える、と言う。
 物理次元に<意識>を投影するために高度な生命体を育んできたさまざまの惑星には、ある種の大きなリズムのようなものがあるのだろう。
 そして『ソラリス』の海のように、飽きることなく最も未熟な意識状態から最も繊細な意識までを反映しうるように、何度も何度も物理次元に形ある生命を育んでは壊して遊んでいるのかもしれない。

 さまざまの惑星上に産みつけられた物質的生命体は、<意識>の誘【いざな】いに従ってさまざまの経験と工夫を重ね、いつかいわゆる自省的意識といわれるものを物理次元の中に投影できるようになる。
 人格とか、自我とか、心とか、マインドとか呼ばれるものを形成する。
 そのマインドはやがて、形ある肉体を自分だと思うところにまで到るだろう。<意識>の遊びはそこまでは何時も成功する。何度も何度もやり馴れてきた<意識>の遊びなのだから。
 しかしいつかひとつの遊びの締めくくりの時が来る。
 物理次元に自らを投影できるようになった自省的意識が、実は自分が全能の自由であり、自分こそが創造主である不生不滅の<意識>そのもの、創造そのもの、けっして対象とはなりえない「真空」そのものであることを悟る時期が来る。
 それまで惑星上の生命体の発展を見守ってきた<意識>の誘導は、ここで終わる。
 驢馬【ろば】を水際まで連れて来ることはできても、驢馬に水を飲ませることはできないからだ。自由を悟らせるために自由を強制することはできない。不滅を悟らせるために不滅を強いることはできない。
<意識>の自由には、理解しない自由が含まれていなければならないからだ。

 惑星上の個々のユニークな<意識>は、それぞれ固有の波長を創造、展開する。
 その<意識>は、「真空」に繋がることによって可能になる。「真空」の海に浮かぶことによって実現されている。
 けれども、どうしても“自分”を肉体としか思えず、肉体が滅びるとき自分が滅びると信じる道を選ぶ場合もあるだろう。そのとき、その<意識>の一点は、肉体の死に際して、滅びえない<主体>としての自分を切り離す手段を取る。つまり一瞬自ら<主体>であることを放棄する道を選ばざるをえない。
 その肉体の“死”の瞬間には、<主体>としての権能をいったん停止する。
<意識>が肉体という衣を脱ぐ瞬間には立ち合わない。かくて、“死”の瞬間に気を失う道を選ぶ。

 けれども、物理次元に突出した個々の生命体ではなく、ひとつの惑星の生命体すべてにとってそのような大きな好機が巡ってくる場合がある。
 無論、そのような“好機”は、ことの性質上“危機”の姿を取らざるをえない。
 それがいわゆる惑星の破滅とか、地球規模の自殺といわれるものだろう。
 肉体を持った個々の生命体は、圧倒的な肉体の“死”の確実さの前に突然自分が肉体ではないことを知るという。惑星の破滅というような大いなる“危機”の瞬間、突然その惑星上のたくさんの生命体に同時多発的に、自分は肉体ではない、という理解が起こるのではないだろうか。
 この惑星上の多くの意識生命体が、自分たちが一見物理次元の中で個別の肉体を纏【まと】い、別々の生命であるように見えても、実は<意識>という滅びることのない海を呼吸する同じ魚であることを知るのではないか。

 ひとつの惑星が通過する大きなリズムの中で、同時に多発するこの<意識>の気づきに同調することを拒否した意識生命体は、次の新たな大きな“めぐり”の中に入っていくことになるのだろう。
 それもすべて自らが選んだことであり、その限りではその意識生命体にとって耐えられないということはない。
 いつでも自分にとって一番居心地のいい“天国”を、あるいは“地獄”をまわりに展開しながら遊んでいくのが、私たち意識生命体の自由なのだから。

 そして、その惑星上の大きな“めぐり”の中で、自分が<主体>であること、自分こそが<意識>であることを選択した意識生命体には、ある新しい、より大胆な冒険と創造と輝きに満ちた世界が開けてくるのかもしれない。
 そこでは個々の生命体はすべて永遠の<意識>であることを誰もが当然のこととして知っており、自虐的あるいは他虐的な苦しみを選択することが可能であることは知っていても、そのあまりにも明白な愚劣さのゆえに、そのような意図的な苦しみを選択する者はいないのかもしれない。