『21世紀への指導原理 OSHO』

家族について


コミューンでは、私たちはますます豊かになるような、そしてあまりたくさん子どもたちを作らず、人口を増やしすぎないような、そんな方法で生活することだろう。
 そして無論、そのような世界では、私たちは家族という単位での生き残りを考える必要性を卒業しているに違いない。
 コミューンの世界では、私たちはもっとずっと自由な単位での生活を営む。

 OSHOは「人間の成長は家族を超えた。家族はその役割を終えた」という。
「将来はひとつの固定的なパターンではなく、それに代わる非常に多くの様式が現れることになるだろう。もしそれでも家族を選ぶ人々がわずかでもいるなら、その人たちにはそうする自由があるべきだが、その数は極めてわずかなものになるだろう」

「今この地上には--1パーセントにも満たぬごくわずかだが--そこで成長が起きているような、そこにどんな権威も支配欲も独占欲もないような、本当に美しく、本当に有益な家族が存在する。
 そこでは、子どもたちが壊されることはなく、妻は夫を破壊しようとせず、また夫は妻を破壊しようとはしない。そこには愛があり、自由があり、ただ歓びのために一緒に集まっているだけで、他にどんな動機もいかなる政治も存在しないというような家族がある。
 そうだ、そういう家族が地上に存在してきたし、そういう家族は今も存在している。そういう人たちにとっては変える必要はない。未来においてもその人たちは家族の生活を続けたらいい」

 OSHOは「共同体【コミューン】とは、人々がひとつの流動的な家族の中で暮らすということだ」という。
「子どもたちはコミューンに属する。子どもたちはみんなのものだ。
 そこには個人財産もなく、個人的なエゴもない。
 ある男性がある女性と一緒に住んでいるのは、その人たちが一緒に住みたいと思っているからであり、そのことを大切にし、それを楽しんでいるからだ。愛がすでになくなっていると感じたら、二人は互いに執着し続けない。あらゆる感謝とあらゆる友情をもって、二人は別れを告げる。二人はそれぞれ他の人々と動き始める」

「過去における唯一の問題は、子どもをどうするかということだった。コミューンでは子どもたちはコミューンに属していればいい。そしてその方が遥かにいい。子どもたちはさまざまな人々と一緒にいて、成長のためのより多くの機会を持つことになる」

 学齢に達した子どもたちは、子どもたちの自主管理コミューンと自分の両親の家のどちらに住んでも構わない。
 どちらをも自分で納得の行くまで試してみて、どちらに住むかの選択を許される。多くの子どもたちは自主管理コミューンに住むことを望むようになるかもしれないが、両親と一緒に住むことを選ぶ子どももいるに違いない。
 それは固定的なものではなく、そのとき本人が選んだ選択というにとどまるだろう。いずれにせよ子どもたちは自分の父親と母親の他に、たくさんのおじさん、おばさんたちに見守られ、たくさんの源泉から愛を受け、コミューンの全員から学びながら成長して行くことだろう。

「未来においては、過去に存在したような結婚はなくなる。
 また過去に存在したような離婚は存在しない。生はより流動的な、より信頼に満ちたものになるだろう。法の明晰性よりは<生>の神秘により多くの信頼が置かれるだろう。
 他のどんなこと--裁判、警察、聖職者、教会--よりも、<生>そのものにより大きな信頼が置かれるだろう。
 そして子どもたちは全員に属すべきだ--子どもたちは家族の紋章をつけるべきではない。彼らはコミューンに属すことになる。コミューンが子どもたちの世話をする」

 地球は新しい実験に挑戦することになるのかもしれない。
 それはもしかしたら、宇宙の中の他の様々な星の実験とは違うところがあるかもしれないが、私たちはそれをやってみることができる。私たちにはそれだけの知性があるに違いない。