『21世紀への指導原理 OSHO』
老いること、死ぬこと
新しい世界では、年老いた人々はその穏やかさ、静けさ、その安らぎと身についた瞑想によって、若者たちの尊敬を受けることだろう。
剽軽【ひょうきん】な老人も、穏やかな老人も、ごくさりげない仕草の中に光明を得た人の香りを放つことがあるかもしれない。そのような静かな存在感によって、老人たちは、ホルモンバランスに支配され自然の束縛の下にいる若い人たちに、彼方なるものへの一瞥を与えることだろう。新しい世界では、老年は美しいものになるだろう。
人生を肉体の死の瞬間に向けての修行の場と考えることもできる。
「老いは醜いものとしてではなく、この上なく優美なものと見なされるだろう。老人は子どもじみた青年にありがちな愚かさをすべて超越し、腹がすわり、落ち着いている」
人は意識して肉体の死を迎える準備のためにこそ、何回もの生涯を老いて行くのだということもできる。
OSHOは、人は自ら意志して肉体の死を迎えることがあっていいという。
OSHOは、大ざっぱにこう教える。
最初の二一年間は、人はこの世で生きる技術を身につけるために使う。
そしてそれに続く四二歳までのあいだ、人は生き、愛し、子どもを産む。四二歳から人は死ぬためのアートを学ぶ、と。
無論この年齢は、現在の地上の平均的寿命を前提とした象徴的なものにすぎないだろうが、充分に生き、充分に愛し、その肉体が与えるチャンスを充分に使いきった老人は、いつかその肉体から休みたくなることが起こるだろう。
そのときもある人はその肉体が許す限界までこの物理次元に生きることを選ぶだろうが、必ずしもその限界まで生きる必要を認めない人がいたとしても、それも理解できる当然の判断だろう。
その人は充分に生きた。充分に美しい夢を見、もう休みたいと思っているのだ。
たとえ、死が存在しないことをその人がその生涯の肉体的実存において体験していないとしても、その人が何の恐れもなくその肉体に分かれを告げ休みたいと思うなら、その選択は許されるべきだ、と。
人間という自然においては、セックスが必ずしも子どもの誕生とつながる必要がないように、つまり受胎調節もひとつの人間的自然であるように、安楽死もまた人間という自然において許されるひとつの妥当な意識的選択なのだろう。
瞑想とは、いわば自ら意志し、意識して死に対面することだった。
意識して死と対面することができたとき、そこで最大の逆説が起こる。すなわち死こそ最大の虚構だということが分かる、とOSHOは教える。
意志して迎えた肉体の死こそ、生の絶頂だった。
新しい世界には、自ら現在の肉体での生を終えることを望む老人たちが入院できる安らかな死のための施設があることだろう。
本人が望むなら、健常な老人も病身な老人も受け入れるそのような施設は、ホスピスの専門家、瞑想の指導者を擁し、老人たちの最後の安らぎと安楽な死を保証するための万全の準備を整えていることだろう。
もともと死は嫌悪するようなものとは見なされておらず、現在の肉体との別れの儀式、感謝の儀式として理解されていることだろう。
それが可能な者は意識を持ったまま、それを望まない者は無意識のままに安楽に現在の肉体から離れることができるだろう。