『21世紀への指導原理 OSHO』
宗教について
新しい世界にも、それぞれの民族や宗教伝統は存続していることだろう。
けれども、それらはすべて気軽なものと考えられているに違いない。
過去に特定のチャネルを通じて地球にもたらされたそれらの教えは、すべて宇宙の真理のある側面を反映しているとは考えられても、そのどれかの教えだけが排他的に絶対的な真理であるなどと信じる者はいないだろう。
個人の意識的選択として、ごく流動的にではあっても、特定の宗教や導師、霊統といったものに親しみを感じることはあるに違いない。
けれどもそれらさまざまな宗教伝統は、大なり小なりどの地域においても選択可能な範囲に存在しており、また宗教そのものが必ずしも必要なものとは考えられていないため、瞑想のためのひとつの通路、設定としての意味しか持たなくなっているだろう。
別の言い方をすれば、過去の時代に存在した宗教は消滅しているだろう。
過渡的に、OSHOが語る次のような姿が出現することもあるかもしれない。
「コミューンでは、ある者は仏教徒であり、ある者はヒンドゥ教徒、ある者はジャイナ教徒、ある者はキリスト教徒、またある者はユダヤ教徒であるだろう。
家族が消えたら、教会は自動的に消えるだろう。家族が教会に属しているのだから。
コミューンでは、あらゆる類の人々が存在し、あらゆる種類の宗教、あらゆる種類の哲学がまわりに漂い、子どもたちはそれを学ぶ機会を得るだろう。
ある日、子どもはあるおじさんといっしょに教会に行き、別の日には別のおじさんと一緒に寺院に行く。そして子どもはそこにあるものすべてを学び、選ぶことができる。
子どもはどんな宗教に自分が属したいかを選び、決めることができる。何ひとつ押しつけられることはない」
過去において宗教とされてきた内容は、新しい世界ではさまざまの瞑想技法を内包した「内面の科学」の広大な分野を構成していることだろう。
人々はそこで自ら好む瞑想を履修する。どのような瞑想を通じるにせよ、自分たちがひとつの同じ<命>を生きていることを誰もが当然のこととして知っていることだろう。
古い世界での宗教的感情は、新しい世界では人々の日常的感情になっているだろう。
すべての人々が自他共にそれぞれが不滅の魂であることを知っているその世界では、生命への畏敬こそが普遍的な宗教感情の中心をなしているだろう。
それでも、ある者はキリスト教に親近性を感じ、ある者は仏教に親近性を感じ、ある者はスーフィズムに親近性を感じることだろう。
そしてそれらの宗教はすべて、「禅」のような気楽で朗らかなものに、ある意味で何の意味もないこの宇宙に対する哄笑になって行くことだろう。
OSHOはいう。
「科学は、生をより快適な、より贅沢な、より美しいものとするためのものになる。
そして瞑想は、世界中で教育の必須の部分となるだろう。そして両者のあいだのバランスが全体的な人間を生み出すことだろう」
「瞑想なくしては、人は明晰性を、そして自分の内なる根拠を、また素朴で無垢な目を持つことはできない」
「宗教的真理の探求は、いかなる意味でも客観的真実の探求を邪魔しない。
この二つの領域はまったく分離しているからだ。
両者は重なっていない。人は科学者であり、かつ瞑想者でありうる」
「実際は瞑想に深く進めば進むほど、人は自分の中により多くの明晰性、より多くの知性、より多くの才能が開花するのに気づくようになる。
このことはまったく新しい科学を創造する。
その新しい科学は、二つの領域を持つただひとつの科学になるだろう。
ひとつの領域は外なる世界に働きかけ、もうひとつの領域は内なる世界に働きかける。
そして名前はひとつで充分だ。
科学【サイエンス】は美しい言葉だ。それは知ることを意味している」