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『21世紀への指導原理 OSHO』より
お伽話:大歓喜自在童子③
大歓喜自在童子は、歓喜の中に深く深く沈潜していった。
自分の思いとは別の、独立した本当の仲間を表現するための舞台はこれで準備できたわけだ。
これで、下準備は整った。
全知全能の自分の思いを、即座には通さない“不自由であるかのような”次元を創ることに成功したのだから。
さて、ここからが仲間を作るという遊びの肝心要の段階だ。
どうやって仲間を作るか。
自分の意図がすぐには伝わらない仕掛けを使えば、自分の意図とは別個の独立した世界が展開するはずだ。
でもそれだけでは、その世界を動かしているのはあくまでも自分だ。
自分が動かさなければ、その世界はやがては止まるのだから。
そこに、少しずれがあるだけだ。
けれども、大歓喜自在童子は、自分とは別個の本当に独立した自分の仲間を創りたいのだった。
そのためには、自分の意図とは別個の、その本人が“意図”を働かす本当の仲間がいなければならなかった。
つまり、その仲間は自分の“意図”を持っていなければならない。
つまり、その仲間は“自分”を持たなければならないのだ。
それは、結局“自分”を創るということだった。
“自分”を創るというこの段階で、大歓喜自在童子は行き詰まった。
本人の“意図”を、本人以外の者に創ることなどできるものかな。
自分以外の者が創った“意図”を、自分の“意図”だなんて思えるものかな。
第一、“自分”と思うその“自分”を、どうやって創れるだろう。
大歓喜自在童子は、悩ましいともいえるような深い歓喜に入って行った。
それでも大歓喜自在童子は、自分にはどんなことでも実現できるということだけは分かっていた。
自分に実現できないことがないことだけは、はっきり知っていた。
大歓喜自在童子は、深く深く歓喜に沈潜した。
全知全能の歓喜に満たされた全体の中に、今、大歓喜自在童子は思うに任せない物理次元を出現させた。
この突然出現した物質世界に“自分”を浸透させることができたら、その“自分”は、時間と空間の世界に展開するその粘着性のある動きを、一種偶発的な混乱したパターンとして受け取るかもしれない。
そうしたら、その混乱したパターンを不得要領に了解して行く中で、その“自分”は固有の自分を創って行くのではないか。
その“自分”は、大歓喜自在童子の思いを即座には反映しない、いわば別個の、固有の独立した仲間になるのではないだろうか。
大歓喜自在童子の歓喜の中で、仲間の姿は徐々に浮かび上がってきた。
……結局、大歓喜自在童子が思いついた方法は、それしか考えられないたったひとつの方法だった。
それは<自分>の<自分>を、その物質世界の中に置くということだった。
すると、そこに入った<自分>は“自分”となって、その“自分”は、“自分”が大歓喜自在童子であることを知らないのだ。
それしか方法はなかった。
こうして物理次元の中に生まれた“自分”は、“自分”が大歓喜自在童子であることを忘れることから出発した。(p316-319)