『21世紀への指導原理 OSHO』

結語


「事実は小説よりも奇なり」という。
 私たちは、どうやらとんでもない時代に生まれ合わせたらしい。
 私たちは、自ら願ってこのような時代に生まれてきたのだろうか。そんなふうに保証する人はたくさんいるのだが……。

 子どもの頃、目を覚ますと知らないところに寝ていて、近くで大人たちの声が聞こえている、というようなことがあった。
 気がつくと、まわりには見知らぬ人たちがたくさんいて、その中に自分の親もいてみんなと親し気に話している。ぼんやり思い出すと、何かの集まりでおばあちゃんの家に来ていたのだった。まわりにいるたくさんの人たちは“親戚”の人たちで、自分は知らないけれども、その人たちの方では自分のことを何でも知っているらしい。
 近くの誰かが目を開けた自分に気づいて、親しげに声を掛けてくれる。その声に応じて、何人かこちらを振り向いて声を掛けてくれる人もいる。
 自分は何も知らないが、まわりの人たちは万事心得ているらしく、何も心配するようなことはないらしい。
 そうと分かって、また安心してうつらうつら浅い眠りの中で漂っているのはこの上なく気持ちのいいものだった。

 どうやらこの時期、地球のまわりにはたくさんの人々が集まっていて、新しく宇宙人として誕生しようとしている私たちを見守ってくれているらしい。
 ただおのずから任せきっていた子どもの頃の甘やかな思い出と違って、今度は私たちは一度しっかりと身に付けた鎧【よろい】を自ら進んで脱がなければならないようなのだ。これまでの地球の常識ではその鎧を身に付けた者が大人ということだったのに、これから私たちが産まれ出て行こうとしている新しい世界では、その鎧を身に付けている者は一人前の有資格者とは認められないというのだから厄介だ。
 その新しい世界には、本当の意味での大人しか住む資格がないのだという。
 私たちは本当の大人の仲間入りをしなければならないらしい。
 ところがまことに厄介なことに、その本当の意味の大人は、ある意味で、私たちの世界でこれまで子どもと考えられてきた存在の、それもきわめて幼い幼児の在り方と非常に似たところがあるらしいのだ。
 自分が存在している世界を信頼しそれに任せきって、自分を防御すべき存在とも思わず、まわりに対するどんな害意もなく、自分の内面を偽ろうとも思わず、人の真意を疑い警戒することもなく、どんな恐怖も持っていない存在だ。
 ただ幼児と違うのは、自分が生かされていること、そして自分が住む世界が自分の内面に対応していることを自覚的に知っており、自分の在り方を自覚的に選択しているということだけだ。
 私たちは、そんなふうな新しい宇宙人として誕生することができるだろうか。

 けれども、もうそんなに時間は残されていないらしい。
 私たちのお母さんはすでに陣痛が始まって久しく、もう産褥【さんじょく】に入って最後の力を出す時を待っている。まわりにはたくさんの宇宙家族の親戚が心配そうに胎児の正常出産を願って集まっているが、実際は異常出産に備えて帝王切開の準備までされているという。
 外で待っている人たちや私たちのお母さんは、陣痛の進行に応じて、胎児である私たちが自ら進んで頭を下にし、産道に向かって自分の姿勢を整えて行くかどうかを心配して見守っているというのだ。

 産まれるのは誰か。
 それは一人ひとりの私たちだ。それは分かっている。
 産まれるとはどんなことなのか。産道とはどんな所なのだろうか。
 縁あって出会った本を読み返し、マインドを巡らして考えてみるに、“産まれる”とは、要するに、苦闘して生き抜いてきた(と思っている)これまでの世界から、(実は私たちの内奥の自分が知っている)自分の真心に応じて“生かされている”ことが自明な世界に移行するということらしい。
 このことを“産まれる”私たちに即して言い直すと、“産まれる”ためには、私たちがこれまでの世界で“生きるため”に掴んできたものは何もかも、すべて手放さなければならないということだ。そうでなければ、私たちはその新しい世界に移行したことにはならないわけだから。
 つまり、“産道”とは、その私たちがこれまでの世界で“掴んでいる”ものを手放すためのプロセスを通り抜けることをいうのだろう。
 そうだとすると、その“産道”の体験は、通り抜ける一人ひとりにとって別のものになるはずだ。何を“掴んでいる”かは、一人ひとりで異なるはずだから。
 “産道”を通り抜けながら、私たちはその自分が“掴んでいるもの”を手放させられるわけだ。そのプロセスにどれくらい抵抗するかで、その人の“産道”体験の過酷さが決まるのだろう。ある人にとっては、それは耐え難い外科手術のようなものになるかもしれず、ある人にとってはそれは現在の日常そのものでしかないだろう。
 ただここに、私たち“産まれる者”にとっては恐ろしいような話があって、今回は出産を先送りすることもできなければ、回避することもできないのだという。

<「神への道は踊りながら行け」と、OSHOはいう。気が違うほどに心配してみたところで、できることは何もない。心配のない世界に、心配することで行けるわけはないのだから……>

 私たちにそれほどの体験を強いるために、母なる地球はどんなことをしなければならないのだろう。個々人それぞれに異なった状況が用意されるだろうが、私たち人類が全体としてこれまでの地球世界を卒業しなければならないのだとしたら、人類全体で共通して通過しなければならないような体験もあるはずだ。
 世界のあちこちに残っている伝承や、中でも復権した太古の日本の神々の口から、私たちがこれまでの地球世界を卒業するためにどのような試練を通り抜けるのかが伝えられている。それは要するに、私たちが自らの奮闘によって生きてきたのではなく、“生かされて”きたことを理解するためのプロセスともいえる。
 一言でいえば、私たち地球人類が大地の恵みによって生かされてきていたのだということ、言い換えれば、私たちが存在して当然と思ってきたものも、実は私たちの成長のために<意図>されて存在していたのであり、その<意図>の都合によっては存在しなくなることもあることを、私たちが理解できるように実証して見せるということらしい。

 私たちが人間社会の中のルールで、つまり金を稼ぐことで“食べている”というのなら、本当に従来の経済社会の中で金を稼げば“食べる”ことができるのかどうかを、実地を通じて体験させられるということのようだ。
 これから世紀末にかけて、私たちは地球規模での食糧不足を通過しなければならないらしい。
 私たちがそのような暴力的な通告をしか信じないとすれば、母なる地球がそのような暴力的手段によってしか私たちを導けないとしてもやむをえないことだ。
 そして、その“産道”体験を通じて、私たちは確かに、自分が自らの苦闘によって生きてきたのではなく、何の苦もなく“生かされて”いたのであり、今も“生かされて”いることを知ることだろう。そして、いつの日か、私たちを“生かして”いる者もまた、“生かされている”私たちを通じて生きているのだということを、私たちは理解するに違いない……。

 ……この文章をここまで読んでこられた方の中に、「その“産道”体験がそのようなものだとして、ではその“産道”を通り抜ける何か方法のようなものがあるのか」と問われる方がいるだろうか。この本をここまで読んでこられた方なら、この文章を綴っている者が、どうも信仰者というわけでもなく、また“超能力”や“悟り”とはなんの関係もないらしい、とはお分かりのはずだ。
 この文章は、ひたすらマインドによって綴られてきた。
 したがって、いうまでもないことだが、この文章の綴り手は、いまだにどうしてもマインドを手放すことができないでいる者だ。今やこの地球世界には多くの超能力者やエゴを離脱した人たちが出現していて、それぞれに決定的な言葉を伝えている。それは「無条件に愛すること」、「ひたすら奉仕すること」、「ただただ感謝すること」、「頭をとって決断すること」といった、それぞれに紛れもない真実の響きを伝えておられる。それらは、それが真実の人によって語られた言葉であるだけに、方法とはいえない方法、“こつ”とはいえない“こつ”であり、その意味では欲望の焦点であるマインドにはどうしても手の届かない教えだともいえる。
 この文章は、欲望の焦点としてのエゴが、欲望の焦点であるエゴに向かって語ってきたものだった。その意味で、この文章はあくまでも「欲望語」で書かれているといってもいい。“産道”を通り抜けるというような超越的な“試練”に対して、「欲望語」で書かれうるような方法とか“こつ”がありうるものだろうか。
 無論、そんなものがあるとも思えない。
 また、そんな超越的な事態について、エゴに質問するような人がいるとも思えない。ただ、もしそんな奇特な方がおられた万一の場合のために、マインドに発見できたぎりぎりの「方法」をここに打ち明けておくのも、ここまで読んで戴いたことに対するせめてもの礼儀という気もする。

 この文章の綴り手がたどり着いた「“産道”を通り抜ける方法」を伝授したい。
 これはどうしても“損得”を離れることができないマインドがたどり着いた方法であり、したがって「欲望語」で書かれており、つまりはエゴが理解できる限度ぎりぎりの方法といえる。
 それは、ちょっとした判断の迷いといった軽い状況から、せっぱ詰まった絶体絶命の窮地といった極限状況まで、あらゆる場合に対応できる方法だと思われる。それは、どのような状況においても常に次のように考えるという方法だ。

 「今のこの状況は、私がこの状況を超越できるかどうかを試験するために全体が与えている状況にすぎない。
 私にとってこの状況が困難な状況であるのは、私が何かを掴んでいるからだ。この困難な状況は、私がその何かを手放したくないために存在している。私にとってそれはどうしても手放したくないものだが、全体にとってはそれは私を試すための手段にすぎない。全体は私にそれをやりたくないわけではない。そんなものは、全体にとっては取るに足りないものなのだから。私がそれを手に入れようが、それを手放そうが、そんなことは実は全体にとってはどうでもいいことなのだ。
 ただ全体は、私がそれを手放すことができるかどうか、私がこの状況を超越できるかどうかだけは見届けなければならない。私がどこまでの自由を手に入れているかを、全体は確認しなければならないからだ。私がこの段階をすでに卒業していることを全体が確認したら、このような状況は二度と再び私には起こらない。そのことを知っている私が、その状況を呼び出さないからだ。しかし、私がこの状況を超越することができない限り、つまり私がその何かを手放すことができない限り、この困難な状況は何時かまた私の前に立ち現れるだろう。この状況をまだ超越していないことを私が知っており、絶対の自由を求めている私がこの状況を自分の前に呼び出すからだ。私がこの状況を呼び出すのは、私がこの状況を今卒業したいと思っているからであり、自分がその段階に達したことを自分で知っているからだ。
 私はこの絶対に手放したくない何かを、今手放すことにしようか。それとももう少し掴んだまま、困り続けることにしようか。私は今、この状況を超越することにしようか。それとももう少し、この段階に留まっていることにしようか」と。

 何だかどこかから、くっくっというOSHOの笑い声が聞こえてくるような気がするのだが……。
 OSHOは、ひたすら私たち地球人を大人にしようとしてくれたのだった。私たちが身にまとった無用な鎧を脱がせようとしてくれたのだった。そして私たちが勇気を持って、自分の生得の権利である本来の自由を自分の手に奪還するように元気づけてくれたのだった。
 OSHO、これでいいでしょうか。