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『21世紀への指導原理 OSHO』より
舞台裏の独り言⑩
あるとき、自分が生きているこのような宇宙の発生を是認できる方法があるものだろうか、と考えたことがある。
その頃、私の哲学頭が抱えていたのは、“何ゆえに、すべては始まってしまったのか”という疑問だった。
こんなことを打ち明けるのは、何んとも恥ずかしいような感じもあるが、恥ずかしいというのも何か傲慢な気もする。
実際の体験を通して知ったことなど何ひとつなく、実際の生活といえるようなものもなく、ただ幼い頃の思い出と、傷ついた自尊心と、未来への不安を抱えて、昼間の浅い夢にうなされながらひたすら不毛を生きる、なかば幽霊のような時間を送っていた頃だ。
床の中から身を乗り出して、自分が生きている唯一の証しである三人称の日記を書き終えては、人気の絶えた暗い夜の戸外に出かけた。昼間とはかなり違った姿を現したその寝静まった夜の家並みの中をひとり歩きながら、とりとめもなく色々なことを考えたものだった。ただし、ひたすら、身近な現実以外ことだけを……。
その時、まるで冗談のように、“唯一納得できるとしたら、それはこの宇宙を創ったのがこの自分だったということが分かった場合だけだろう”という思いが来た。
無論、自分がこの宇宙を創ったなどということを、いささかでも信じたわけではなかった。
ただ、単なるレトリックとしてであれそんなことを思い至ったことに、何か神秘的な一種の驚きのようなものを感じたことも事実だった。
それは、問いの解答とは、疑問を抱いた者自身に戻って来るのでなければ、本当らしくはないのではないか、という思いが来た初めての時だったかもしれない。
そんなことがありえないのをよく知っていながら、しかも何故か、そこに何がしかの真理のかけらがあるような気がしたのだった。(p225-227)