━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2026/6/14(第1156号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com/mm/
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◇◇このメルマガの趣旨◇◇
アセンション館主人pariとの一体化が緩んできた意識に
相変わらず起こりつづけている想念を報告しています。
あなたは気づきです。あなたが気づきなのだから、
それを得たり、培ったりする必要はありません。
あなたがしなければならないことは、真我でない他の物事に
注意を払うのをやめることだけです。(Ramana Maharshi)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わってますね。
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◇◇もくじ◇◇
1.「私」は自分ではない(「静寂」44)
2.編集後記
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■1.「私」は自分ではない(「静寂」44)
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さて、またまた一週間が過ぎて、
“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
ロバート・アダムスのサットサンの
エッセンスが編纂された本『ハートの静寂』の
「11章 放棄」という章からの写経を
つづけたいと思います。
前回に続いて「*「私」の跡」という一節から
後続する一部をご紹介します。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長すぎる引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
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言い換えるなら、
あなたが今後しなければならないのは、
あなたが「私」に言及するとき、
あなたは自分自身について語っているのではない、
ということです。
あなたはそのことを覚えていることができますか?
「私」という言葉を使うたびに、
あなたは自分自身に気づいて、
「『私』は自分(Me)ではない。
自分(Me)とは、私とは何か? である」
と言う必要があります。
自分(Me)とは、
「どの源泉から、その『私』が来ているのか?」
という質問です。
でも、その「私」は
あなたとは絶対的に何の関係もありません。
もしそれがあなたと何の関係もなければ、
あなたはそれを放棄するために
奮闘しなくてもいいという意味です。
もしその「私」が
本当にあなたに所属しているとすれば、
あなたは自分の手に戦いをもつことになるでしょう。
というのは、
あなたは「私」を取り除く
あらゆる方法を探すからです。
でもあなたが、
その「私」があなたに所属していないことを
思い出すとき、
戦うべきことはありません。
あなたは単に、
あなたはその「私」ではないと理解するだけです。
では、「私とは何なのか?」
もしあなたが、
私が今述べたようなやり方で、
これを練習するなら、
あなたが「私とは何か?」と言うとき、
あなたはまったく新しい啓示を得ることでしょう。
ようやくまさに最後になって、
あなたは「私とは何か?」を問います。
ついにあなたは、
その「私」が自分ではないと
理解するようになったのです。
『ハートの静寂』(p243-244)
https://tinyurl.com/4b5dsnb4
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われわれがロバート・アダムスの教えに従って
探求の道を進もうとするなら、
しなければならないことは単純です。
それは「私」という言葉を使うたびに、
その「私」は自分ではないと
思い出すことです。
日常の生活のなかで
われわれは数え切れないほどの頻度で
「私」という言葉を使うでしょう。
たしかに、日本語では、
英語の場合ほど、
「私」という代名詞を使わなければ
表現自体が不自然になるということはありません。
「出かけるよ」という言い方は、
日本語ではごく普通の表現です。
誰が出かけるのかは
この言葉を聞いた人には自明ですから。
しかし英語なら
going out.
という表現は、
「出かけるよ」という意味にはなりません。
そういう表現があるとしたら、
それは単に、
誰が出かけるのかを問題にしない、
ただの辞書的な“出かける(こと)”を
意味するだけでしょう。
「出かけるよ」の意味なら、
英語では誰が出かけるのかを明示して
I'm going out.
と言わなければならないでしょう。
そういうわけなので、
英語ではこのエゴとしての自分が関わる
動作や感情の表現を
「I」を省略しては述べられないわけです。
そういう言葉を使っていれば、
「I」を使うたびに
ロバート・アダムスの教えに従うことは
かなり難しいことでしょう。
「I」という単語を使うたびに
その「I」が自分ではないなどと
思い出すのは至難の業であるはずです。
しかし、
英語ほどではないにしろ、
日本語を使うわれわれも、
「私」とか「俺」とか「僕」とか、
あるいは「わたし」「わたくし」という
言葉を使う場面は数え切れないほどあるはずです。
その一人称代名詞を使うたびに、
それがこの身体にくっついたエゴのことで、
それは自分とは絶対的に無関係なものだと
思い出すのは、
やっぱりかなり至難の業です。
しかし、
この肉体が明らかに対象物であることも事実です。
その対象物の独自性に言及している
「私」という一人称代名詞が
自分とはまったく無関係なものであると、
使うその時点で常に思い出すのは
日本語を使う人間にもゲームとしてかなり難しい。
なにしろ
自分は人間だと思っているわけですから。(^_-)
もちろん、
通常は誰もそんなことは思いません。
ただ架空の物語の文脈のなかで
その物語を進行させる想念が
当事者と想像されている肉体の中に
湧き上がるだけです。
しかしわれわれ、
少なくともこのpariなどは
ロバート・アダムスの教えに従おうと
意図しているわけです。
わたしは普段喋ることがかなり減っています。
それだって、
今こうして、
「わたしは普段」などと言っているわけです。
その「わたし」は、
自分とはまったく無関係であることが
思い出されているでしょうか?
いや、
そんなことを言えば、
ほとんどアウトであることは間違いありません。(^_-)
「わたしは普段」などと言えば、
それは当然のようぬpariというエゴを指して
いることでしょう。
だから、
ここでロバート・アダムスが語っているゲームは
かなりな挑戦なのです。
たとえ百戦百敗だとしても、
挑戦する意味はあります。
> あなたが今後しなければならないのは、
> あなたが「私」に言及するとき、
> あなたは自分自身について語っているのではない、
> ということです。
「わたしは」と言うとき
それは自分に言及しているのではないと覚えている。
やる意味ありますよね。
誰が?
もちろん、
「わたし」というエゴがです。(*^_^*)
pariというエゴにとって
それはまたとない挑戦です。
> あなたはそのことを覚えていることができますか?
> 「私」という言葉を使うたびに、
> あなたは自分自身に気づいて、
> 「『私』は自分(Me)ではない。
> 自分(Me)とは、私とは何か? である」
> と言う必要があります。
というわけです。
「わたしは」と言ったら、
それは自分のことではない。
それは自分とはまったく無縁なもの、
それは世界に属しているもの、
あるいは
世界を吐き出す蜘蛛のようなもののことです。
自分は、
「私とは何か?」という問いだと
即時に思い出す必要があるわけです。
いやー、
ハードル高いですよね。(*^_^*)
でも、挑戦しなきゃ。
> 自分(Me)とは、
> 「どの源泉から、その『私』が来ているのか?」
> という質問です。
自分というのは
「どの源泉から、その『私』が来ているのか?」
という問いのことだというのです。
そして、その「私」は
自分とは絶対的に無関係なもののことです。
これを日常生活のなかで
「わたしは……」と言うたびに
思い出すわけです。
でも、これが
あらゆる賢者、
リシたちの教えにつながる道なのです。
ニサルガダッタ・マハラジが
マッチ箱を取り上げたのを憶えていますか?
──────────────────
ここでマハラジはマッチの箱を取り上げ、
それを持ち上げ、
こう尋ねました。
「これはあなただろうか?
もちろん、
そうではない。
そのことを理解するのに
時間が必要だろうか?
この事実の直感的認識は
即時ではないだろうか?
それでは、
あなたが肉体−マインドと呼ばれている
その現象的対象物でないと
直感的に認識することに、
なぜ時間がかかるべきなのだろうか?」
マハラジは続けて言いました。
「どうか次のことを理解してほしい。
直感的認識は
知性の基本である意識の到着以前にある。
直感的認識は漸進的練習の問題ではない。
それは自然に起こることができるだけだ
──
意図的進歩がなされるどんな段階もない。
どんな進歩をするどんな『人』もいない」
『ニサルガダッタ・マハラジが
指し示したもの』(p281-282)
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まさに、
こうでなくっちゃ、という明快さですね。
ロバート・アダムスは
この文脈で「放棄」について語ります。
> もしそれがあなたと何の関係もなければ、
> あなたはそれを放棄するために
> 奮闘しなくてもいいという意味です。
自分にまったく無関係なものを
頑張って手放す必要などないわけです。
だって、
もともと自分とはまったく何の関係もなく、
その意味では、
自分とのどんな接点もないわけですから。
もちろん、
自分とはあらゆる顕現に
隈無く浸透している普遍的な純粋な気づきである、
という観点からは、
あらゆる顕現は自分そのものでもあります。
しかし、
その「わたし」が自分ではないことを
「わたし」という言葉を使うたびに思い出す
というゲームの観点からすれば、
自分は「その『私』とは何か?」、
「その『私』はどの源泉から来たのか?」
という問いなのですから、
その「わたし」を放棄する必要など
まったくないわけです。
つまり、
このゲームは最初から
覚者の立場、
真実の立場に立っているとも言えます。
これって、いいですよね。
最初から真実の立場に立っているんですから。
というのは、
もしその逆の立場に立って、
自分はその「私」だということになれば、
これはかなり厄介なことです。
見かけの状況の中に自分がいて、
自分はそのエゴだという立場を取ったら、
これはもう、
なんとかして自分はそのエゴを
振り切らなくてはならないことになる。
自分から自分を引っ剥がして
放り投げださなければならないことになる。
誰がどうやって自分を放り出せるというのでしょう?
これは言葉を換えれば、
そのエゴである自分が覚者になるという
不可能事を実現しなければならないことになる。
これはもう、
坐禅をしている馬祖の隣で
瓦を持ち出して磨き始めた
南嶽懐譲の真似をして見せなくてはならない。
ご存知の話でしょうが、
公益財団法人 禅文化研究所の記述を
引用させていただくなら、
こんな感じの逸話です。
──────────────────
若き日の馬祖は、
来る日も来る日も坐禅三昧の日々を送っていました。
それを見た師の南嶽は、
彼の庵の前で一枚の瓦を
石でゴシゴシと磨き始めます。
不審に思った馬祖が
「何をされているのですか?」と尋ねると、
南嶽は
「磨いて鏡にしようとしている」と答えました。
馬祖が
「瓦を磨いたって鏡になるわけがないでしょう」と笑うと、
南嶽はすかさずこう返しました:
「瓦を磨いても鏡にならぬなら、
坐禅をして仏になれるのか?」
言葉に詰まった馬祖に、
南嶽は
「牛車が動かないとき、車を打つのが正しいか、
牛を打つのが正しいか?」と問いかけ、
馬祖はこの言葉で真の悟り
(自己の本質)に目覚めたとされています
──────────────────
このpariという肉体が本当に自分なら
自分は大変な挑戦に立ち向かうことになります。
その肉体はどうやって
その肉体を引きはがせるのでしょうか?
あらゆる苦行に立ち向かわされるかもしれない。
いずれにせよ、
大変な難問を抱えることになる。
しかし、
サットグルであるロバート・アダムスが
教える方法は単純です。
ただ、
その「私」が自分に所属していないことを
思い出すだけなのです。
自分はその「私」ではないと理解するだけです。
自分がその「私」ではないのなら、
では、「私とは何なのか?」
「わたし」という言葉を口にするたびに
これを思い出すわけです。
ロバート・アダムスは、
ようやくまさに最後になって、
われわれはは「私とは何か?」を問うのだ、
と言います。
> ついにあなたは、
> その「私」が自分ではないと
> 理解するようになったのです。
と。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(__)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(__)m
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「ニサルガ辞書」はここです。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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………○…………○…………○………
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………○…………○…………○………
キンドル本の
『地球世界はかなり特殊』(1)地球の常識は外宇宙の非常識
https://tinyurl.com/yzemhvs3
手にとっていただけました?(^^;)
読み物として面白ければと思っています。
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■2.編集後記:
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「わたし」という言葉を使うチャンスは、
数え切れないほどの頻度で起こります。
この肉体の誕生以来
あらゆる機会を使って
われわれは自分とはこの身体のことだと
自己同化するための訓練を受けてきました。
これはすべてただの習慣にすぎない。
されどそれは長きにわたって強制された
習慣でもあります。
その習慣を解除するために
多少のゲームをこなすのは
致し方ないことだとも言えます。
しかし、それは無駄な訓練ではない。
サットグルが伝える最短の道です。
「在るがまま」の自分に感謝します。(-||-)
お休みなさい。
(-||-)
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■ 【作者】『アセンション資料館』主人pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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